これは2008年から2013年まで ニュー・サイエンス社発行「季刊・四季の味」に『銭屋の勝手口』として連載された銭屋主人・髙木慎一朗による随筆の一編です。連載では料理人である筆者の目と体験を通して日本料理の世界と人、美味しいものなどについてが綴られています。今回はNo.72 秋 2012年9月21日発売号に掲載されたものを出版社の許諾を得て掲載いたしました。
もともと海外に興味があり、遠くに出かけることも苦にならないタイプなので、十六歳のときの初海外旅行以来、いまでもときどき外国に出かけております。
ただし、最近はそのほとんどが仕事がらみなので、慌ただしく行って帰ってくるだけ。ですから、ゆっくり観光や買い物なんてのは、実はまったく経験がありません。
パリに行こうがNYに行こうが、その目的のほとんどは料理することか、食べること。つまり、滞在時間のほとんどは厨房かダイニングルームで過ごしている、ということでしょうね。
海外では積極的にその国の料理を食べるようにしています。もちろん、日本でも多くの外国料理は楽しめますが、やはり本場の味を試してみたいもの。最初の二、三日は珍しいやら興奮しているやらで楽しくいただきます。しかし、それが連日連夜続くとなると、間違いなく日本料理が恋しくなります。
また、せっかく来たのだから、と無理して一品でも余計に食べようとしてしまい、ときには調子を崩すこともありました。「ああ、もう少し食べる量を控えたらよかった」などと宿に戻ってから後悔することもしばしば。おかげで、いまでは胃腸薬が私の海外渡航の際の必需品となっております。
このように私は、薬を飲んででも、御当地料理を食べようとするタイプなのですが、先日伺った香港では、ちょっと違っていました。
現地で合流した友人とホテルのバーでビールを飲みながら、「さて、今夜はどこで何を食べようか?」と相談している際に、その友人は突然、「そうだ、日本料理にしよう。香港で日本料理、いいじゃない」と言い出したのです。
一瞬「やだなー」とは思ったのですが、結局は、まあいいか。
というわけで、香港に到着した初日は、なんと日本料理を食べることになったのです。
とはいうものの、どこのどのレストランに行ったらよいか、皆目見当もつきません。そこでホテルのコンシェルジュに「香港で一番流行っているジャパニーズレストランを紹介して、予約して下さい」とお願いしたら、「ズーマ!」と即答。そしてお店に予約の電話をしてもらうと、運良くテーブルも予約できたとのことでしたので、早速タクシーで出かけました。
夕食時の、九龍サイドと香港サイドのトンネルの渋滞は、いわば香港名物。このルートだとどれだけ時間がかかるか、全く読めません。私達は地下鉄でズーマへと向かいました。
お店に着いて、中を見渡すと、モダンにデザインされた空間が広がっていました。その様子からは、とても日本料理を出しているようなお店には見えませんでしたが、よく見ると寿司屋さんのようなネタケースがあるではありませんか。それにしたって、日本料理店の雰囲気はありませんでしたけどね。
席についてメニューを見ると、わかるようなわからないような英語の献立で埋め尽くされています。確かに、日本料理の献立を英語で表記することは、相当難しいものです。私も、海外で料理を提供するときには、お客様にお渡しするメニュー表記に毎度毎度悩んでおります。どのような表現だとわかりやすいだろう、どのように訳したらよいだろうと、締切のぎりぎりまで悩むことがほとんどです。ですから、このように英語表記の日本料理のメニューを見ることに関して、私はいつでも興味津々なのです。
そして、このズーマの献立表記、実にわかりやすいものでした。中には、ちょっと簡単すぎる表現では?と思うものもありましたが、なるほど、こういう表現でいいのか!といくつかメモを取ったほどです。
そもそも、このズーマはドイツ人シェフ、ライナー・ベッカー氏によってロンドンで創業されました。現在は香港のほかに、イスタンブール、バンコクなどにも出店しているようです。ベッカー氏は東京のホテルで日本料理を数年間勉強し、ズーマを創業させたのですが、外国人シェフが創業した世界中で展開する日本料理店としては、多分初ではないでしょうか。
さて提供している料理は、刺身や寿司、炉端焼き風炭火焼など、どちらかといえば、外国人に分かりやすいメニューばかりでした。せっかくだから色々と味見したいと思い、友人達とシェアするつもりで、多めに注文しました。
ざる豆腐や串焼き、西京焼きなど、頼んだものだけ見れば、まるで日本の居酒屋にいるような気分になります。もちろん、出されたそれぞれの料理は申し分ない、いわゆる日本の味でしたが、やはり分かりやすい、ハッキリとした味付けにはなっていました。
まわりのテーブルを見れば、シャンパーニュや赤ワイン、白ワインなどを召し上がっていらっしゃる方々がほとんどでしたが、中にはシルバーのワインクーラーに日本酒を冷やして、グイグイ召し上がってらっしゃる方もいました。海外でそんな場面に遭遇すると、どこか嬉しいものですよね。
そして、使われている食器の大半は、日本製の陶磁器のように見えました。土もの、磁器もの、ガラスものなど、多分日本で仕入れたのでしょう。その反面、いわゆる洋皿の類はきわめて少なかったことも印象的でした。
和食器がモダンな空間に違和感なく納まっている、その様は、私にとってはまだ珍しいものではあります。しかし、外国人が楽しそうに過ごしている様子を見ながら、これもまた日本料理であると確信しました。
実は、四月から銭屋の調理場にも、ドイツ人がチームの一員として加わります。いままではフランス料理をやっていたそうなのですが、どうしても日本料理を勉強したいと知り合いのツテを頼りに、銭屋の門をたたいてきたのです。
これまでも短期ではありましたが、何人かの外国人研修を受け入れてきました。ドイツ、イスラエル、シンガポール、アメリカ、韓国などから、短いのは三日ほど、長いのは約一か月、いわば客分として調理場に滞在してました。しかし、今回はきちんと銭屋の近くに引っ越してきて勤めることになっているのですから、これまでとは状況が違います。
もちろん、始めてみなければ何もわかりませんが、ぜひ銭屋での修行期間を楽しんでいってほしいものです。この修行期間は本人のためのみならず、ウチのスタッフにとっても必ずや良い刺激になるはずです。
私たちが何年もかけて地道に習得してきた技術を学びに、たった一人で知り合いもいない遥か遠い国にある銭屋を目指してやってくるなんて、本当に嬉しく思っています。
そしていつの日か、ズーマみたいな店、というわけではありませんが、ぜひ日本料理店をドイツで開業してほしいと思っています。
そうなれば、様子を見に行かなければ、ということで、私にとっては大手をふって出かけられる、海外旅行の大義名分ができるというもの。これこそは役得というべきでしょうか。
まあ、とにかく、この先の楽しみが、また一つ増えたような気分です。なんだか、ビールでも飲みたい気分になってきましたわ。
石川県金沢市「日本料理 銭屋」の二代目主人。
株式会社OPENSAUCE取締役