2019.10.31

祖父と、祖父のファイルのこと

レシピ本

私のレシピ物語金沢・カレーチェーン 南恵太氏

祖父は、謎の多い人だった。

180cmを超える長身瘦躯で眼光が鋭く、記憶の中の祖父は痩せぎすの梟のようだ。物心がついた頃にはもう、ワシャワシャとパーマのあたった白髪。口数が少なく、会話らしい会話を交わした覚えがあまりない。

16歳で東京へ洋食修行に行き、県内に戻ってからはいくつかのレストランでチーフコックとして勤め、独立した洋食店で『金沢カレー』の元となったレシピを作ったのが、祖父である田中吉和である。

レストランニューカナザワのコックたち

「皇族の方が来県した際にはお料理を振舞ったような、腕のいい料理人だった」という話を、たまに母から聞かされていた。そんな一方で、仕事のない夜はいつも、デパートの地下で買った日持ちのするお惣菜を気持ち程度つまみ、テレビを観ながら白米をモソモソと数口咀嚼したら終わり。およそ食の世界に携わる人間とは思えぬ。質素といえば聞こえはいいが、その作業のような夕食風景に、味気なくはないのだろうかと思った。

今にして考えれば、営業から仕込みまでひとりでこなし忙殺される中、いつのまにか身につけていた、あれは祖父なりの合理性だったのだろうか。

そんなわけで、自分の食べるものにさえ頓着する気配のなかった祖父が唯一作ってくれたのは、新年のローストビーフだ。これは我ら家族の風物詩的なもので、取り寄せのおせち料理と並んで毎年、祖父が焼いたローストビーフが振る舞われた。

絶妙な火の通り具合で、噛めば赤子の頬のように柔らかい。口の中で繊維質が解けていくのを感じると共に、じんわりと広がる肉の風味と、舌にとろける脂。そして、ほのかに感じるアルコールの余韻で後を引くソースが、次のひと口を急がせる。記憶で美化された部分もあろうけれど、あのローストビーフは「あぁ、この人は腕利きの料理人なのだ」と年に一度思い出させてくれる、絶品だった。

外孫で一度も同居したことはなく、長期休みや早引けだった土曜に、託児所代わりとして母方の実家へ遊びに行った。

祖母はチャキチャキ、ハキハキとしたよく笑う人で、ぼく自身は多分に彼女の血を引いていると思う。たまに来る「銀行さん」や「業者さん」と応接間で丁々発止わたり合うのも祖母の仕事だ。そんな時にも祖父はどこか蚊帳の外といった風情で、決まって居間でテレビを観るとなく眺めていた。

ただし、店や会社のことについて決めるのは、全て祖父の役目だった。いつもは憎まれ口を叩く祖母や母も、祖父がこれと決めたことには口を差し挟むことがなく、そして祖父の決めたことは大抵上手くいった。

祖父といえばもうひとつ、思い出すことがある。それは、冷蔵庫の中にそそり立つ、コーラ缶の赤い壁だ。

小学校の夏休みのある日、祖父の家で、近くの駄菓子屋で買った菓子と共にコーラを飲んでいた。そこへ居間を通りがかった祖父が珍しく「コーラは好きか」と訊ね、好きだと答えた。祖父は、昔の瓶コーラが変わった形状の販売機で売られていたことや、初めてそれを飲んだときのことなどをつらつらと言葉少なに語り、ふいとそのままどこかへ行ってしまった。

あくる日、祖父宅の冷蔵庫を開けると、見たこともない数のコーラ缶が詰め込まれていて肝を潰した。何事か祖母に聞くと、「あんたがコーラが好きと言うから」と、祖父が買ってきたものの様だった。近所の自販機でひと缶ずつ買ってはスーパーの袋に入れ、何往復もしていたらしい。祖父はまた、極端な人でもあったのだった。

口数が少なく、伝え聞けば苛烈な部分もあった祖父だったが、ぼくは孫として溺愛されていたように思う。なかなか、言葉や表情には現さない人ではあったけど。

現在地移転前の旧本店外観(旧・タナカのターバン改装)

カレー屋を継ぐ気はなかった。

ぼくら一族はとんと高等教育と縁がなく、加えて飲食というある意味因果な水商売の家であったため、「好きなことならば何をやってもよいが、できるだけ良い大学へ行ってしっかりと給料の出る仕事に就け」という(言外の)方針で育てられた。何故かといえば、月給の出る仕事はきっと、日々の売上と支払いに胃を痛ませるようなことがないからだ。

そんな調子だったので、当然、祖父を含め家族のだれからも「店を継いでくれ」などと言われるでもなく、むしろ「お前は当然家から出ていくのだ」という空気の中で生きてきた。

高校大学と進むにつれ、いつか多少の手伝いをしなければいけないタイミングはあるのかもしれない…とは想像していたものの、経緯で家業を継ぐことと決まったのは、ごくごく最近のことだ。とはいえ「仕方なく」ではなく、自発的にこの仕事がしたいと思ったし、それは祖父への敬意と無関係ではない。

そんな先行きを見届けぬ間に彼は亡くなった。まだ事業を継ぐことなど考えていなかった学生の時で、皆に看取られて逝くという、理想的な最後ではあった。そしてぼくは当初、フードサービスとはまるで関係のない仕事に就き、その後に実家を継ぐことを決めたが、そうして戻ってきてみてはじめて、祖父のことやこのカレーの成り立ちを、あまりに知らないことに気が付いた。

自分のことを多くは語らなかったものの、幸いと祖父は几帳面な性質で、過去の資料を大量に整理して遺してあり、ある時ぼくはその遺品を片っ端から読み返していった。『金沢カレーの歴史』として自社サイトにまとめたコンテンツは、そうやって自分なりに分かったことをまとめたものだ。

埃とカビの匂いのするファイルには、最初に洋食店を『ターバンカレー』として新装した際に参考としたのであろう、大阪の名店『インデアンカレー』の内装写真(※余談だが、おそらく当初に店名として『ターバン』をつけたのは、『インデアンカレー』さんを意識していたのではと思われる。『インデアンカレー』さんのマークはシーク教徒を思わせる、ターバンを巻いた人の横顔である)、東銀座にある日本で最初の本格インドレストラン『ナイルレストラン』の退色したショップカードなどが挟まれていて、カレー屋に限らず全国各地の、その当時最先端だったであろう飲食店に関する記事がスクラップされていた。目新しいスパイスに関する新聞記事もあったし、少しでもお店のヒントになりそうなものは切り抜いて時系列にまとめられていた。

お店として小さくはない成功をおさめ、身内や関係者ではある種の神がかりの様に言われていた祖父の意志決定の背後にあった貪欲さと試行錯誤に触れ、断片的なメモの走り書きに滲む追求度と、ある種それとは相反する徹底した合理性に驚かされた。あれは、ぼくにとって初めて祖父とゆっくりと会話をしたような時間だった。

何を手本とし、そこから何をアレンジし、どこで躓き、何を考えたのか。全てが明確ではなく、赤ペンの跡や断片的な内容から類推するしかない部分も多いけれど、手探りでお店の進む道を切り開く、強い意志をそのまま閉じ込めたようなそのファイルは、今も社内に保管されている。

自分の代になり、善かれ悪しかれ自分自身も試行錯誤をしてきたし、し続けていると思う。ありがたいことだが、これだけ指名で来店頂きリピートして頂けるお客様(しかも大半はぼくに負けず、うちのお店への拘りを持ってらっしゃるお客様だ)がいれば看板はそれなりに重くも感じ、一方、それでも変わっていかなければならない部分もある。そして自分たちの歩いている道の正しさを保証してくれるものは当然ない。

低い打率でバットを振り続ける様は無様だし、今のお店の在り方を見て「これは俺の愛したチャンカレではない」という方も当然いらっしゃるのだろう。そういうことを思う度、いつも「今も祖父が生きていたらどうしたろうか」と考えてしまう。

そんな時に、あの黄ばんだファイルを見返す。それが「祖父ならどうしていたか」を教えてくれることはないけれど、「祖父も闘っていたのだ」ということ、ぼくらの仕事に究極的な正解などないことを、実感をもって教えてくれるからだ。

会社が今やっていることは、祖父のファイルの書き換えではなく、そこに新たなページを加えていく仕事である。受け継がなければいけないものは、事業に対する矜持であり、時々でどう答えを出すのかは人によるのが当然だ。今の社員にもそれぞれにやりたいことがきっとあって、祖父の遺した描きかけのカンバスの上に、ぼくらはぼくらなりの会社像を描いていく。

伝統を受け継ぐということは過去のやり方を丸々遺していくことのみを意味するのではなく、精神的な火を灯し続けていくことが最も重要なのだと信じている。そして、だからこそぼくはこれからも折に触れ、自問し、創業の精神を想像するため、祖父のファイルを見返すだろうと思う。

今年の夏は暑く、先日少し日差しの和らいだ時間に息子を伴って墓参りをした日、祖父と祖父のファイルのことを思い出した。

文:株式会社チャンピオンカレー 代表取締役社長 南 恵太氏