ChatGPTに、「生」のつく言葉をいくつか出してもらいました。
『生麩』、『生チョコ』、『生キャラメル』、『生ビール』。『生ハム』。
生がつくと、なんだか美味しそうに感じます。それでいて、「生」の正体を私たちはあまりわかっていません。
生魚、生野菜、生麦、生米、生卵はわかりますが、上記の「生」についてちゃんと説明できる人は少ないでしょう。小学生が「友達の家に行ったら生ハムが出たよ!」というと、なんだか玄関に西洋甲冑のあるお金持ちの家が想起されますが、「ハムが出たよ!」だと、なぜだか先方に無理させてしまったような気がします。
生というのは、なんだか柔らかくて、不安定で、今を逃したら消えてしまう高価な何か、というニュアンスがあります。
ところで、文章を書くにもすでにアシスタントになってくれているように、AIの進化が大変なことになっております。
人間がやることは何が残っているのか、という事態になって参りました。
そこでヒントになるのが、この「生」と「手」なのではないでしょうか。
生原稿、生放送、生配信、生対談。これらは、人間という生々しい生き物だからこそ意味のあるものでしょう。
そして人間の「手」がつく言葉もたくさんあります。AIに出してもらいました。
『手紙』、『手書き』、『手料理』、『手作り』、『手渡し』、『手売り』、『握手』、『手こき』、『手ぶら』、『手荷物』、『手作業』。
ロボットというハードウェアは、AIというソフトウェアにはまだ追いついていないので、人間の手を使った方が効率のいい仕事もたくさんあります。
また、効率だけではなく、人間が関わるということに意味があるものが多くあるのもわかります。
ロボットの作った完璧な料理より、お世辞にも美味しいとは言えないが、家族や恋人が自分のために作ってくれた料理。また、AIが描いた完璧な肖像画より、子供が描いてくれた絵の方が、下手なら下手なほど嬉しいということもあるでしょう。
手という不確定なデバイスの動きは、人間の関係性に基づいており、結果を担保しないからこそ価値があるのでしょう。
手と生に共通しているのは「味」というキーワードかもしれません。
味のある人、味わい深い人っていますよね。
自動チャーハン機で、安くて均一で完璧なチャーハンが作れるチェーン店は、美味しくて大変ありがたいものです。
しかし空腹時にどの店のチャーハンが浮かぶかといえば、暖簾もボロボロで、店主のおじさんが不機嫌な顔でハイライトを咥え曲がった腰で中華鍋を振り、カウンターにあるホコリのこびりついた占い機と同じ体型のさぞかし賄いをたくさん食べていると思しきお姉さんが切り盛りする近所の中華屋さんです。
味覚を超えた「味」の力です。
化学調味料が良い悪いという平和な論争も定期的に巻き起こりますが、その本質は味覚や健康云々ではなく、食事における「味」の「元」とはどこにあるのかという極めて定性的な話なのではないでしょうか。
AIに仕事を奪われないためには、「生」で「手」を介した「味」のある仕事とは何か、ということがヒントになるように思います。
最後に、このコラムをAIに推敲してもらいました。
なかなか生意気なやつですね。