まずこの人をなんて呼んだらいいかをすごく悩む。
ブッダの話をしたいのだけれど、ブッダって賢者とかそういうような意味であって、人名ではない。
ジャイナ教の開祖のヴァルダマーナという人もブッダって呼ばれているし、果たしてブッダでいいんだろうか。
でもブッダの名前はガウタマ・シッダールタでしょ、といわれるかもしれない。
そう、それはサンスクリット語の読み方。
初期仏教の経典が書かれているパーリー語という言葉だとゴータマ・シッダッタ。
もう、なんて呼んだらいいかわからない。
悟る前の彼をブッダと呼ぶな、というアレコレもあるし、もう面倒なので「釈迦」と彼のことを呼ぶことにしよう。シャカ。これも名前じゃないけど、もういいの。
釈迦でいこう。
ギブミー・スイーツ
ちょうど先ほど「悟る前の」と言ったけれど、悟る前の釈迦は苦行至上主義の最右翼だった。
彼は6年間も苦行をしまくり、釈迦の精神と肉体は死の直前のところにまできていた。
当時、御歳35か36といわれている。
皮と骨ばかりになった釈迦は川で沐浴をして身体を癒し、樹の下で瞑想をしていた。
そこを通りがかった女性がこの釈迦をみて、
「きゃー!!!樹木の神様がいるー!!」
と、家に急いで帰って、自分の女主人に報告したのである。
これには理由がある。
なぜかというと、この目撃した人の女主人はむかし樹木に願掛けをしていて
「結婚したい!でもちゃんとした家の出の夫がいい!結婚したら男の子がほしい!!」
と、パワースポット神社に行って必死に絵馬を書く婚活女子のようなことを過去にしていたのだが、それがちゃんと叶ったのである。
この女主人のエライところは、ちゃんとこの願掛けのときに
「かなえてくれたら毎年、ちゃんと金をかけた祭祀しますから!!」
とお願いをし、それを律儀に守っていた。
その樹の神様が降臨なさったと聞くや、この女主人は
「その節はありがとうございます、神様ー!!!」
と、やって来て、完全勘違いで釈迦に乳粥という現代のタピオカ的なフルーツ入りの甘いスイーツ粥を捧げたのである。
断食苦行をしていた釈迦は、生命の危機に瀕していた。
釈迦は苦行にはまっっったく意味がないことを痛感していた。
空腹に耐えるとか、なんの意味あるんですか?と。
釈迦はこの乳粥をありがたく食した。
その粥が、釈迦の心と身体を癒す。
そして再び川で沐浴をして心身が調えられ、静かな心で大きな菩提樹の下で瞑想に入り、悟りに至ったのである。
釈迦も「いやー、ほんとあの粥なかったら悟ってなかったわー」と、言っている。悟りもなにも、死んでいたかもしれないのだから、そりゃそうである。
この女主人、名前をスジャーターという。
よく「スジャータ」と表記されるが、厳密には正しくない。性別が変わってしまうのだ。サンスクリット語でスジャータだとそれは男性をさす。
女性にしたければスジャーターと後ろを伸ばさないといけない。
なおスジャーターという名前、「いいとこのお嬢さん」という意味である。
※乳粥:米、ドライフルーツ、ナッツ、豆類などを、牛乳や山羊乳などで煮込んだ甘いお粥。
釈迦、最後の食卓のメニュー
ブッダは食事と縁深い生涯だった。
このスイーツ粥の悟りから45年後のこと。
釈迦も御歳80歳の老齢になっていた。
この時、ラージャグリハ(王舎城)にいた釈迦は、自分の故郷であるカピラヴァストゥに向けて北上する旅を決める。
80歳とはいえ、そこは釈迦。
超人的な元気さだろうかと思われるかもしれないが、もう自分は老い朽ちたと弟子に言うほどに、ヨボヨボしたお爺ちゃんになっていたのだった。
旅の途中、ガンジス川を渡河したあたりで釈迦は病気になってしまう。
しかし、それでも釈迦の旅は続く。
マッラ国のパーヴァー(サンスクリット語ではパーパー)村でブッダが教えを説いたときのこと。
感動して朝食にお招きしたいという人物が現れた。
彼は鍛冶屋とも細工師ともいわれるが、いづれにせよ彼はクラフトマンで、名前をチュンダという。
チュンダは朝も早くから腕によりをかけ、釈迦を饗応する食事を用意しはじめた。
この時のチュンダが釈迦のために用意したメニューが大量の「スーカラ・マッダヴァ」である。
これが釈迦の最後の食事となる。
謎のメニュー スーカラ・マッダヴァ
このスーカラ・マッダヴァ、実はどんな食べ物かわかっていない。
サンスクリット語でスーカラは豚で、マッダヴァは柔らかい、という意味の複合語。
トロトロに煮込んだような、やわらか肉のなんかの料理を出したといわれている。ちなみに私の脳内では、勝手に豚の角煮に変換されている。
え、釈迦、肉食べていいの?と思われるかもしれない。
もともと仏教では肉食を禁止していない。
確かにダメな肉食はあるのだけれど、それが「三種の不浄肉」と呼ばれているもの。
三種の不浄肉とは、
- 自分のために殺すのを目撃した
- 自分のために殺したと聞いた
- 自分のために殺したのではないかという疑いがある
そういう肉以外はOK。
だから釈迦は施された肉を食べてもおかしくないのである。
いや、釈迦は肉を食していない、という考えもある。
このスーカラ・マッダヴァとは、トリュフのように豚が好むキノコを調理したものだ、とする解釈があって、こちらの方が仏教学の世界では主流になっている。
それでも私は、豚のやわらか煮派である。
キノコスープ(漢訳仏典には「栴檀樹耳」という名前で出てくる)だというのは『大方広仏華厳経随疏演義抄』などの大乗仏教の中国経典などにはみられるけれど、初期漢訳仏典には見られないし、4世紀成立の『アッタカター』という初期仏教のパーリー語経典注釈書にも「スーカラ・マッダヴァはキノコだよ」なんてことは書かれていない。
大乗仏教の流れの中で成立していった菜食主義に合わせるかたちで、「始祖のブッダが肉食は流石にアウトだよね。戒律と辻褄があわない…」と、キノコのスープに書き換えられたのだろう。
さて、とにかく釈迦はこれを食べて、
「この料理は私だけのもの。余ったのは捨ててね?弟子は別メニューでヨロシク」
と、チュンダにこっそり囁いている。
最も価値のある食事
相当、このスーカラ・マッダヴァが美味しくて独り占めしたくなっちゃったのだろうか?
いや、実はこれを食べた直後から釈迦の身体に激痛が走ったとされる。
食べた瞬間、やばいコレ食べたらあかんやつやん…、と師みずから毒味をしてくれたのだろうか。
幸いこの釈迦の的確な判断で、スーカラ・マッダヴァにあたったのは釈迦だけだった。
釈迦はその場では平静を装うが、チュンダの家からの帰り道に激痛と血便に倒れる。
結局これが決定打になり、釈迦の最後の食事となってしまうのであった。
しかし、それでも釈迦は旅を続ける。
そしてクシナガーリー(パーリー語ではクシナーラー)の地に至り、そのまま入滅することとなる。
釈迦は生前、こんなことを言い遺していた。
「チュンダの食事は、スジャーターの乳粥と同じぐらい、私にとって他のどんな供養の食べ物にも勝る大きな価値があった」
と。
スジャーターの乳粥は、生命を回復させ悟りを開くきっかけとなった食事。
そしてチュンダの食事は、釈迦を煩悩のないニルヴァーナ(涅槃)の境地へと誘うものであった。
ゆえにチュンダには大きな功徳があるのだ、と釈迦は言うのである。
しかも自分の弟子(超絶美形だったとされる)のアーナンダに
「絶対、チュンダが私を殺したっていうやつ出てくるから、そういうヤツがいたら私がこう言っていたと諭してあげてね!!」
とチュンダへのアフターケアを忘れていない。
仏典には釈迦が言っていない言葉がたくさん入っているはずだが、これは釈迦自身が本当に言っただろうな、と思われる言葉だ。
ゆえに、チュンダを罵る者は、幸いにも釈迦の教えを無視している者にしかいないのである。
釈迦の特技 なんでも美味しく食べる
絶対それ食材が傷んでたよ。
釈迦も口にした時点で気付こうよ。と思われたかもしれない。
『大智度論』という『大品般若経』の注釈書に、釈迦に三十二相(32個のの非凡な特徴)があると書かれている。
その第26番目にあるのが「味中得上味相」。
なにかというと、
「なにを食べても超極上の美味しさを味わえる」
という超絶スキルを釈迦は持っていたとされている。
そんなスキルがあったんじゃ、傷んでいても食べちゃうよね。仕方がない。
Photo by Hideyuki KAMON
私は、だいたい数日に一食しか食べない。一ヶ月に一食のときもある。宗教上の理由でも、ストイックなポリシーでもなく、ただなんとなく食べたい時に食べるとこのサイクルになってしまう。だから私は食に対して真剣である。久々の一食を「適当」に食べてなるものか。久々の食事が卵かけ御飯だとしよう。先に白身と醤油とを御飯にしっかりまぜて、御飯をふかふかにしてから器によそって、上に黄身を落とす。このときに醤油がちょっと強いかなというぐらいの加減がちょうどいい。醤油の味わい、黄身のコク、御飯の甘さ。複雑にして鮮烈な味わいの粒子群は、腹を空かせた者の頭上に降りそそがれる神からの贈物である。自然と口から出るのは、「ありがたい」の一言。