2022.07.06

中島岳志 中村屋のボース【私の食のオススメ本】

中村屋のボース 表紙

  • 書名:中村屋のボース 
  • 著者:中島岳志
  • 発行所: 白水社
  • 発行年:2005年初版

この本は食の本ではない。インド独立運動と近代日本のアジア主義の本である。大佛次郎論壇賞とアジア太平洋賞の「大賞」作品である。が、しかし『新宿・中村屋』であり『インド』なのである。当然『カレー』である。

インド独立の闘士、ラース・ビハーリー・ボースは1915年に日本に亡命し『新宿・中村屋』に身を隠した。本郷・東大前でクリームパンを売り出して評判になった中村屋は1907年に内藤新宿に支店を出す。中村屋はカレー屋でなく、ご存知の通り月餅や中華まんじゅうで有名になったが高級な菓子屋だったのである。

その中村屋がボースの亡命によって、日本初の本格的インドカレーを売り出すことになったのは有名なのだが、高級菓子の老舗であった中村屋がなぜそこまでインドカリーにこだわり続けてきたのか。帰化したボースが中村屋の娘と結婚したことだけが理由だろうか。そう思いながら目次を追いながら読む。

日本の一食品メーカーの経営戦略を超えた、近代アジア史の壮大なドラマが中村屋の「インドカリー」にはあったことがわかる。

著者、中島岳志は大阪外語大でヒンドゥー語を学び、京大大学院でアジア・アフリカ地域の研究をした。著書に「ヒンドゥー・ナショナリズム」がある生粋のインド専門家だ。1905年の英国によるヒンドゥーとムスリム連携の切り崩しや、反英独立運動の中心地ベンガル分割統治しようとしたことが糸を引いた、ハーディング総督爆殺未遂事件の張本人となったボースの足跡を辿らざるを得なかったのだと思う。

歴史社会学者の小熊英二はこの本が「インドと日本をまたぐ「国際思想史」の研究書であると同時に、数奇な運命を歩んだ人物のヒューマン・ドキュメントとしても読める。これほど興味深い本はめったに出会えるものではない」と書いている。

文字のみ350ページ近くあるこの<歴史ドキュメント>を制覇するのは根気がいる。まだ読みきれていない。まずは部分的に飛ばしながら歴史を追って1読目を終了。2読目ではボースの妻となった淑子との魂の関係をたどって読み直している。

中村屋のカレーは食だけの歴史ではできてない。ボースの植民地統治の政略に追われ(とは言っても爆殺未遂事件の張本人なのだが)、大東亜戦争によって引き裂かれたアジア解放の思い。懊悩とロマンス。われわれの周りにこれほどの重さを背負った「料理と味」というものが他にあるだろうか、と思ってしまった。

その味はレトルトにもなり、日本初のインドカリーの味として日本中の食卓に日々のぼっている。この濃厚な国と宗教と人にまつわる歴史を知っても「中村屋」という文字を見ると、新宿に行ったら暫くぶりにカレーを食べてみたいと思う。その時はボースの懊悩など忘れているのだろうが。

神田神保町のスマトラカレー『共栄堂』も大東亜共栄圏から来ているかと思っていたのだけれど、時代的に合わず、どうやらこちらは日本人が伝えたカレーで、インドネシアと日本が共に栄えるようにという大正末期の創業者の考えらしい。

どちらにしても、外国から渡ってきた料理にはそれぞれ歴史があり、それを残すのも忘れてはいけない。料理には皿にはない背景があるのだ。

WRITER Joji Itaya

出版にたずさわることから社会に出て、映像も含めた電子メディア、ネットメディア、そして人が集まる店舗もそのひとつとして、さまざまなメディアに関わって来ました。しかしメディアというものは良いものも悪いものも伝達していきます。 そして「食」は最終系で人の原点のメディアだと思います。人と人の間に歴史を伝え、国境や民族を超えた部分を違いも含めて理解することができるのが「食」というメディアです。それは伝達手段であり、情報そのものです。誰かだけの利益のためにあってはいけない、誰もが正しく受け取り理解できなければならないものです。この壮大で終わることのない「食」という情報を実体験を通してどうやって伝えて行くか。新しい視点を持ったクリエーターたちを中心に丁寧にカタチにして行きたいと思います。