2020.03.05

奈良の濡れ衣とフグ −志賀直哉−

blowfish-fugu-sashimi

歴史を研究していてよかったことが幾つかある。その一つが、手紙を堂々と盗み読みできることだ。その人の意外な人となりが、手紙のふと息を抜いた瞬間に漏れでてくる。

これと同じで、文豪の愛した食べ物を係累せし人の随筆や作品などからを寄せ集めてみると、意外な素顔が見えたりするのである。

文豪の食卓 第三回 志賀直哉

志賀直哉

小説の神様と謳われし志賀直哉の小説には、食べ物の描写が極端に少ない。谷崎潤一郎とは真反対に食べ物を描かない作家といえるだろう。

そこに何かの美辞や比喩表現を用いることがない。

志賀直哉の食べ物に関するもので有名なのといえば『小僧の神様』という小品がある。

貴族院議員Aが小僧の仙吉に鮨をおごってやるという話なのだが、別にその鮨が美味しそうというわけではない。

海苔巻とか鮪の鮨とか名称があるだけだ。

そんな志賀直哉は食べ物に興味がなかったかというとむしろ逆で、自らも厨房にたって料理を振る舞うほどの人だった。

彼は食について

「毎日三度、一生の事だから、少しでもうまくして、自分だけでなく、家の者までが喜ぶやうにしてやるのが本統だと思ふ」(「衣食住」)

と、書いている。
これは食の本質かもしれない。

奈良に美味いものなし

こんな言葉をご存知だろうか。

「奈良に美味いものなし」

知人の奈良県民もしばしば自嘲気味にこの言葉を口にする。

初対面のときに「いや、奈良に美味いものなし、の奈良県出身なんですよ」と、挨拶されたことが他の人でもあった。

いやいや、三輪素麺は奈良のものだし、美味いものはある。

こんな言葉を誰が言い始めたのかというと、志賀直哉なのである。

「食ひものはうまい物のない所だ。私が移つて来た五六年前は牛肉だけは大変いいのがあると思つたが、近年段々悪くなり、最近、又少しよくなった。此所では菓子が比較的ましなのではないかと思ふ。蕨粉(わらびこ)といふものがあり、実は馬鈴薯の粉に多少の蕨粉を入れたものだと云ふ事だが、送つてやると、大概喜ばれる。豆腐、雁擬(がんもどき)の評判もいい。私の住んでゐる近くに小さな豆腐屋があり、其所(そこ)の年寄の作る豆腐が東京、大阪の豆腐好きの友達に大変評判がいい。私は豆腐を余り好かぬので分からないが、豆腐好きは、よくそれを云ふ。」(「奈良」『志賀直哉全集 第六巻』)

ああ、本当に言っていた。「食ひものはうまい物のない所だ」と。

しかしその続きを読んでみると、蕨粉であったり、がんもどきだったり、豆腐を褒めている。

食べ物に就てあまり言及しない志賀直哉にしては珍しいことである。

ただしそこ彼処に漂う「自分は関係ないけどね」という文調からしてみるに、たまたま奈良の食べ物は志賀直哉の口に合わなかっただけかもしれない。

志賀直哉とフグ

以前、錢屋の髙木慎一朗さんと冬の旬話でフグについて対談したことがあった。

そこで私はフグの美味しさがわからない、と再三言ってしまっているが、志賀直哉の好物はフグなのである。

志賀直哉は歯がよくなかったから、歯応えのある食べ物をあまり好まなかった。

そのためフグ刺よりフグチリを好んだが、それでもフグ刺しは食べたという。

フグは歯応えがある食べ物である。それなのに好きというのだから、相当に好きだったといえるだろう。

志賀直哉本人は食について寡黙な人であったが、周りの人々の随筆などから、かなり食いっ気の強い人であったことがわかる。

昭和23年(1948)、戦後の焼け野原の東京での暮らしに厭気がさして、志賀直哉は居を湯河原と熱海の中間ほどにある大洞台というところに移す。

これはその時の話である。
湯河原に福田蘭堂という人物がいた。

写真を見ると現代人ではなかなか見ない面構えをしているのだが、本業は尺八奏者である。

父は、西洋画家の『海の幸』で有名な青木繁。

蘭堂は随筆もなすし、釣りの名人でもあるという芸達者な人だった。

これは夏の話だが、福田蘭堂の湯河原の処に瀧井孝作、井伏鱒二の作家たちが泊まりがけで釣り遊びに来ていた。

そのときにフグが五十尾も大量に釣れてしまう。

瀧井孝作は食べたことがないと云い、井伏鱒二は気味が悪いので要らないという。

それで福田蘭堂は、親交の深かった大洞台の志賀直哉のところへこの大量のフグを持っていく。

調理するのは福田蘭堂である。ちなみに蘭堂曰く

「わたしは釣ってきたフグを自分で調理し、何百回も食べているので、調理には自信があった」(「フグ」『志賀先生の台所』)

そう、蘭堂は無免許の素人なのである。

この時、大洞台の志賀邸には孫たちも避暑のため遊びに来ていた。

最初、蘭堂のフグを怪しんで家族は手をつけなかったが、やがて蘭堂につられてフグの刺身に箸をのばす。

三十分ほど経った頃に、志賀直哉の六女で当時16歳の貴美子氏が赤い顔をして

「口のまわりがしびれるわ」

と、言い始める。

これに対して福田蘭堂、

「口のまわりがしびれるようでないとフグの味がでないのさ」

と、応えている。

顔面の紅潮に唇の痺れ、これは完全にフグ毒の症状である。

結局、家族全員重篤のフグ毒症状になることもなかった。

福田蘭堂は胸を撫で下ろし、

「もう他人の家では、フグ料理は絶対にするものではない」

と、心に誓ったのである。

それでも大量のフグの角煮を作って志賀家に置いていったから、家族がみんなそれを平らげてしまったのだけれど。

ちなみにフグ毒というのは加熱しても毒は抜けないのである。

かくいう福田蘭堂もしっかりとフグ毒の洗礼を受けている。

戦争中に焼夷軍人の慰問のために尺八奏者として下関を訪れた福田蘭堂は、玄界灘のタイの刺身と騙されて初めてフグを食べる。

痺れという前駆症状から、呼吸困難に陥って、軍病院に搬送される。

そのときに軍医が

「庭の隅に五尺ほどの深さの穴を掘るがよか」

と、言っている。

髙木さんとの対談でも「フグ毒で穴を掘って埋めるは本統か」という話が出たけれども、戦時中の段階でも穴掘って埋めていたのである。

この福田蘭堂は、自分が釣った魚を振る舞うための「三魚洞」というプライベートサロンを渋谷で主宰した。

これはやがて店となり、クレイジーキャッツのピアノ担当で料理研究家の故・石橋エータロー氏がこれを引き継ぐ。

石橋氏は福田蘭堂の子息なのである。

福田蘭堂、石橋エータロー氏が亡くなったあとも今なおこの店は渋谷で続いている。

オリンピックに向けた渋谷大開発のあおりで三魚洞は立ち退きとなり、店には閉店しますと張り紙されていたが、無事にもとあった所にほど近い場所へ移転している。

三魚洞のブリ大根が旨いので、無くなってしまっては困るのである。

参考文献

  • 福田蘭堂『志賀先生の台所』(現代企画室,1977.3)
  • 志賀直哉『随筆 衣食住』(三月書房 2012.11 新装版)
  • 志賀直哉『志賀直哉全集』第六巻(岩波書店 1999.5)

私は、だいたい数日に一食しか食べない。一ヶ月に一食のときもある。宗教上の理由でも、ストイックなポリシーでもなく、ただなんとなく食べたい時に食べるとこのサイクルになってしまう。だから私は食に対して真剣である。久々の一食を「適当」に食べてなるものか。久々の食事が卵かけ御飯だとしよう。先に白身と醤油とを御飯にしっかりまぜて、御飯をふかふかにしてから器によそって、上に黄身を落とす。このときに醤油がちょっと強いかなというぐらいの加減がちょうどいい。醤油の味わい、黄身のコク、御飯の甘さ。複雑にして鮮烈な味わいの粒子群は、腹を空かせた者の頭上に降りそそがれる神からの贈物である。自然と口から出るのは、「ありがたい」の一言。