歴史を研究していてよかったことが幾つかある。その一つが、手紙を堂々と盗み読みできることだ。その人の意外な人となりが、手紙のふと息を抜いた瞬間に漏れでてくる。
これと同じで、文豪の愛した食べ物を同時代の人の随筆を寄せ集めてみると、意外な素顔が見えたりするのである。
文豪の食卓 第二回 吉田健一
RIFFはOPENSAUCEのメディアなのである。このOPENSAUCEというのは金沢に会社があって、そういうことなら第二回目も金沢に因んだ「吉田健一」のことにした。
金沢に所縁のあるというと泉鏡花、室生犀星、徳田秋聲が直ぐに出てくる。
しかし吉田健一となると、誰それ、という声が聞こえてくるかもしれない。
吉田健一とは誰か。
吉田健一の祖父の名は牧野伸顕。牧野は大久保利通の次男である。
そして吉田健一の父は、吉田茂。
吉田健一が生まれて間も無くのころ外交官であった吉田茂は満洲国の安東に領事として赴任することになり、不便のある土地だということで幼い健一は祖父の牧野家に預けられた。
そのうちに牧野家の方で健一に愛着が著いて、そのまま牧野家のほうで育てることになったということらしい。
吉田家の系譜は政界エリートの系譜であるが、吉田健一は父・茂のような政界への意欲は全くなかった。もっとも吉田茂はもともと外交官であって、当初は政界に意欲があったというわけでもないのだけれど。
いづれにせよ吉田健一は、父とは異なり、文学の方面へと歩んでいくことになる。
吉田健一は18歳の時に名門ケンブリッジ大学のキングスカレッジに留学している。しかし半年後に中退。理由は、特に本人も明らかにはしていない。
「その時ディツキンソンが言つたことで覺えてゐるのは或る種の仕事をするには自分の國の土が必要だといふことである」(「G・ロウェス・ディツキンソン」『吉田健一集成』第3巻 新潮社 1993)
と、本人がケンブリッジでの回想をこう書いていることと無縁ではないかもしれない。
というのもこの吉田健一は第一言語が英語なのである。
日本語よりも英語の方が得意な人で、仲の良かった作家の大岡昇平が、吉田が人妻のことをジンサイと訓じていて意味がわからなかった、というようなことも書いているほどだ。
もしかするとディッキンソンの回想からすると、吉田は「故郷(自分の国の土)を作るため」に日本に帰国したのかもしれない。早く日本に帰りたくて仕方なかった夏目漱石とは逆に、ずっと英国に居たかったのを敢えて戻ってきたことになるだろうか。
吉田健一と金沢
そんな吉田健一と金沢との関係は45歳になってからで案外に遅い。
昭和32(1957)、吉田健一が食紀行(『舌鼓ところどころ』)を執筆するために金沢市から招かれたのが最初だった。
その後、昭和35年(1960)に文学の師の河上徹太郎らと金沢を訪れて以降、65歳で亡くなるまでの約20年間、毎年必ず二月に金沢を訪れた。当時の金沢は今よりもずっと寒く、春まで溶けぬ雪が道に寝ている時期をあえて選んだのである。
しかも吉田健一と金沢との付き合いかたは一寸変わっていて、別に家を買おう、定住しようというのでもなかった。
彼の小説『金沢』には
「東京にいればすることがあり、この東京という町の性格もあって何もしないでいられる時間が少ないから金沢に来るのであってもそれではどうしてそれが金沢で他の町ではいけないのか」
とあるし、吉田健一も雪の金沢にわざわざ「なにもしないため」に訪れたのだろう。
こういうこともあって、二十年にわたる吉田健一の軌跡はいまだに金沢の随所に残っている。
彼が定宿にしたのは犀川のほとりの料亭・つば甚の離れ。ここは室生犀星が芥川龍之介をもてなした処でもある。
江戸時代から続く金沢の酒蔵・福光屋に「黒帯」という酒があるが、このネーミングも彼によるもの。命名にも、有段者のための酒、という吉田健一流のエスプリが利いている。
別に文献や書籍で証拠があるわけではないのだが、金沢の郷土料理に「加賀料理」と名付けたのも彼だと言われる。意外にも金沢のあちこちに吉田健一の遺産があるのである。
吉田健一の華麗なる質朴
吉田健一と金沢の料理についてはありすぎて取り上げられそうにない。
むしろ、『金沢』や『舌鼓ところどころ』を読んでいただければ、吉田健一の味のある文体で今でもある金沢の店や料理や酒がたくさん登場するのでそちらをご覧いただきたい。
吉田健一が書いたものは『酒肴酒』『汽車旅の酒』『酒談義』『酒に呑まれた頭』『私の食物誌』『舌鼓ところどころ』などなど酒と食べ物の話には枚挙にいとまがない。
さぞ普段から豪勢な料理を平らげ、酒を鯨飲する豪傑なのかと思いきや、意外なことに自宅では客人の来訪を除いては殆ど酒を喫むことがなかったという。
一週間のうち六日は酒を一切飲まないなど、規律正しい生活を送った。
三食をきっちりと食べ、昼食のあとに決まって午睡をした。
そのあとにイマヌエル・カントよろしく定刻通りに散歩に出る。そういうタイプの人であった。
文士にしては珍しく吉田健一は家族との時間を大切にしていて、吉田健一とその妻君、のちに大学生になった令嬢の暁子氏との間にお茶の時間が毎夜設けられていた。
そのとき食べるものは決まっていて、オープン・サンドイッチ(パンで挟まないサンドイッチ)であった。
令嬢の暁子氏にバトンタッチされるまで、ほぼ毎にち吉田健一自らが作っていた。オープン・サンドイッチの具材は茹で卵やハムにマヨネーズ・塩・胡椒で味付けしたシンプルなもの。
いろいろな彼の著作を読むからに、吉田健一は酒好きよろしく甘いものをそこまで好んではいない。けれども旅先に行くと、旅先の菓子類を手にしている。
その中にあって別格の扱いを受けた菓子の一つが、長崎の『福砂屋』のカステラである。
これがカステラというものなのだろうかと思った位それは味が淡くて歯触りが羽二重団子を食べているのに似ていた。それが西洋だとこの系統に属している菓子の上等なのは乾いた感じで口に入れるとそのまま溶ける具合になるのに対してカステラはその点が違っていてどこか粘るものがあるのがその特徴であるような気がする。これは餅菓子の餅の伝統がものを言っているのだろうか。(『私の食物誌』)
吉田健一がここまでの賛辞をお菓子に送るのはアイスクリーム以外ではカステラだけではなかろうかと思う。
けれども吉田健一が一番気に入ったのは、カステラの本体の部分ではなかった。
切り落としの部分である。
むしろ端切れの方が本体より美味しいという。
それをタダで袋に端切れを詰めて貰って帰ってきたが、それもたちまち無くなってしまった。
他にもカステラを焼いたあとの型についている部分をこそげ落としたのもお気に入りで、これが一罐詰めで手に入ったらいいのにという吉田健一。
意外にも素朴なものを好んでいたように思われる。
吉田健一の随筆に出てくるような生活は、吉田健一のハレ(非日常)の部分なのだ。
酒も美食も、毎日すれば飽きて旨くはなくなってくる。
美味いものを美味しいと感じることは、日常の質朴さに支えられているのだということを吉田健一が教えてくれている。
私は、だいたい数日に一食しか食べない。一ヶ月に一食のときもある。宗教上の理由でも、ストイックなポリシーでもなく、ただなんとなく食べたい時に食べるとこのサイクルになってしまう。だから私は食に対して真剣である。久々の一食を「適当」に食べてなるものか。久々の食事が卵かけ御飯だとしよう。先に白身と醤油とを御飯にしっかりまぜて、御飯をふかふかにしてから器によそって、上に黄身を落とす。このときに醤油がちょっと強いかなというぐらいの加減がちょうどいい。醤油の味わい、黄身のコク、御飯の甘さ。複雑にして鮮烈な味わいの粒子群は、腹を空かせた者の頭上に降りそそがれる神からの贈物である。自然と口から出るのは、「ありがたい」の一言。