2018.11.13

野菊のチョコレートクレープ

クレープ作り

原宿と言えば竹下通りのクレープ。

今でこそクレープなんて一般的というか、古臭いスイーツ代表のような印象があるが、私が初めて食べた頃は最先端のスイーツだった。
あれははいつ頃だったのか?記憶を辿ってみることにした。

原宿でないことは確かで、なぜならば私は子どもの頃は福島県の郡山市というところに住んでいたし、原宿はおろか竹下通りなんてところにには行ったことが無かったからだ。

では、いつどこで食べたのか?

少し考えたらすぐに約四十年前の記憶が蘇ってきた。
私が小学生の頃に、すぐ近所に住んでいた同い年のゴドヤン(後藤くん)という仲良しの同級生が居た。
しょっちゅうお互いの家で遊ぶ友人だった。

そして、ゴドヤンには少し年齢の離れた兄が居た。
彼の家に遊びに行き、こっそりお兄さんの部屋に入って遊んでいた時に、ベッドの下から大量のエロ本(エロトピア)が出てきた。
小学生の私にとって、それはもうツタンカーメンにも匹敵する世紀の大発見だった。

一通り目を通し、何も見なかったことにしてゴドヤンの部屋に戻って遊んでいると、エロ本の持ち主が帰ってきた。

ゴドヤンのお父さんも家に居て、紅茶を入れるから庭に来いと言われた。
そう聞くとイギリス王室のようなイメージを持つかもしれないが、普通の家の普通の庭の話だ。庭に行くとエロ本のお兄さんがラジカセを持って座っていた。

そのお兄さんから唐突に

「おめ、たづろさ聞いたごどあっか?」

と聞かれたのだが、さっきのエロ本の持ち主に聞かれてもスケベな話にしか聞こえなかった。
私がラジカセの方を見ていると、彼は再生ボタンを押して音楽を流し始めた。

「♪ぬ青い〜、すんーぅいへいせんのー」

曲はライド・オン・タイムだった。
RIDEONTIME山下達郎 – YouTube

それからというもの、山下達郎を聞くたびに、大量のエロトピアの表紙が脳裏に思い浮かぶようになってしまった。
脳内データベースというのは一度情報が紐付けられてしまうと解除するのが厄介だ。

ゴドヤンのお父さんは、郡山駅の近くで「野菊」という小さなお好み焼屋さんを営んでいた。
お父さんは、たまにお店が始まる前に、ゴドヤンと私を呼んで、お好み焼を食べさせてくれた。
お好み焼の味こそ殆ど覚えていないのだが、一度だけとても印象に残っている出来事があった。

それが表題の件である。

声も顔もフランク永似のお父さんがバリトンボイスで

「宮田くん、クレープって、食べたことあるかい?」

そう聞かれ、もちろん食べた事が無かった私は「ないです」と答えた。

「そうか、じゃあ作ってあげる」

そう言うと、お店の奥でゴソゴソと準備をし始まった。
私はゴドヤンに「クレープってなに?」と聞いた。
彼がその時に何と答えたのかはハッキリとは覚えていないのだが、とにかく薄っぺらいヤツだというような事を言っていた。

しばらくすると、ボウルを持ったお父さんがやってきて、おたまを使ってお好み焼の鉄板の上で薄っぺらい生地を焼き始めた。
そこにソースを回しがけして、薄く切ったバナナを敷き詰め、生クリームを絞り出し、生地を三角形に折りたたみ、有田焼のような皿に乗せた状態で渡された。
子どもながら、ソースとバナナと生クリームのマリアージュを想像すると気持ち悪くなった。
お父さんに、

「手で持って食べな」

と言われて、恐る恐る口に運ぶと、甘くてとても美味しかった。
あれはソースではなくてチョコレートだったのだ。
茶色いしお好み焼き屋さんだから間違いなくソースだと思い込んでいた。
お父さんは板チョコを溶かしてチョコレートソースを作ってくれていたのだ。
美味しくてペロリとたいらげてしまい、家に帰って母親に自慢をした。

すると次の日には母がクレープ風のおやつを作ってくれた。
あの頃はインターネットも無い時代だったのに、私の説明を聞いただけで一体どうやって作ったのだろう?
謎は深まるばかりだが、お菓子作りが好きでフライパンひとつでパウンドケーキを作ってしまうスキルを持っていた母親なのでクレープぐらい朝飯前だったのかもしれない。

十二歳になって、父の転勤で東京に住むことになった私は、東京で仲良くなった同級生の友人と初めて原宿に遊びに行った。
竹の子族を横目に竹下通りを歩くと、甘酸っぱい香りがした。
そこには福島に居たころにテレビで見た「クレープ屋さん」が軒を連ねていた。
オシャレな紙にくるくると巻かれたクレープは、私が食べた有田焼風の皿に無造作に置かれたアレと同じ食べ物には見えなかった。

なぜ今回クレープの思い出が蘇り、この記事を書いたのかと言えば、私が役員をしている会社の仲間の実家が、その昔にクレープ屋を営んでいたという事実を知ったからだ。

オフィスで行われたパーティーで、トンを使いながらクレープを器用に焼く仕事が素人のものとは思えない手際で、あれは簡単そうに見えて実のところ難しい技術なので訳を聞くとそういう事だった。

その実家のお店の名前は「クレープランチ・ビュッフェ」だったらしい。
誰もが二度三度聞き直してしまい、あとから二重にも三重にもジワジワ効いてくる素晴らしいネーミングセンスだ。
今はもう無いお店だそうだが、新聞記事だか何かの写真が残っており、それを見せてもらったところ、店内は銀河鉄道999の食堂車を模したような内装で、そのセンスたるや、もう何がなんだか分からない様子だった。
彼のお父さんは規格外のクレイジーだったのだろう。
しかし、彼の作るクレープはそのネーミングからは想像出来ないほどの腕前で、明日からでも開業できるほどのクオリティだった。

彼には是非、お父様の意思を受け継いで「クレープランチ・ビュッフェ」を再建してもらい、立派なクレープ職人兼デザイナーという働き方改革を推し進め、我が国の未来に一隅を照らして頂きたい。

『耕作』『料理』『食す』という素朴でありながら洗練された大切な文化は、クリエイティブで多様性があり、未来へ紡ぐリレーのようなものだ。 風土に根付いた食文化から創造的な美食まで、そこには様々なストーリーがある。北大路魯山人は著書の味覚馬鹿で「これほど深い、これほどに知らねばならない味覚の世界のあることを銘記せよ」と説いた。『食の知』は、誰もが自由に手にして行動することが出来るべきだと私達は信じている。OPENSAUCEは、命の中心にある「食」を探求し、次世代へ正しく伝承することで、より豊かな未来を創造して行きたい。