『私は人間を「調理する動物」と定義する』と言ったのはサミュエル・ジョンソンという18世紀英国の文学者、詩人、そして「典型的なイギリス人」らしい名言を多く残した名誉ある皮肉屋だ。彼は『動物は多少なりとも記憶力と判断力を有し、人間と同じ機能と情熱のすべてを持ち合わせている。だが料理はしない。』と結んだ。
生きていたら皮肉交じりの料理アプリを作り上げたはずの男
20世紀にオクスフォードフォード英語辞典が完成するまでは1755年にサミュエルの作った英語辞典がもっとも権威を持っていた。しかもビアスの「悪魔の辞典」の遥か前「fortuneteller =占い師 未来のことを知っているふりをして普通の人々をだます人」などと辞書に記した人間である。彼が生きていて「料理アプリ」を編んだなら、英語辞典のようにそれを超えるものはなかなか生まれないのではないだろうか。食材に「oats =カラスムギ 穀物の一種。イギリスではふつう馬の飼料だが、スコットランドでは人間の食料」などといちいち書かれるだろうことも含めて。
さて、サミュエルの名言にある「調理」と「料理」はどう違うのか?いったい料理とは何か?定義で言うならば「調理」は「料理」に含まれ、調理は食材を食べやすくするために加工するプロセスや行為を指し、料理は「食べる物をこしらえる」」ことであり「こしらえたもの」を指し、調理の内容を含んだ意味となる。
ちなみに調理は食材を切る・焼く・煮る・揚げる・炒めるといった技術や工程のことなので、料理を作る道具や機械は「調理器具」と言い「料理器具」とは言わない。同じような使い分けとして分かりやすいのは「料理店」だ。宮沢賢治が『注文の多い「調理」店』と書かなかったように、客のために食べ物を作って提供するのは「料理店」である。物語の途中の「多い注文」は実は調理である。料理になるのは客という結末であっても、人に提供されるのは料理であって調理ではないのである。主人公は最後に自分が料理になるために調理されていたことを知る。
世の中に「小料理屋」はあっても「小調理屋」はない。どうも「料理」は調理をする者と供される者との間の「見える」または「思う」という直接的な関係が存在する必要があるようだ。
さらに、世の中には「調理食品」というものが溢れている。これは通常、生ものや店頭で売られる惣菜類を(なぜか)除いた、冷凍・レトルト・缶詰の中でもそのまま食べられるものなどをいう訳だけれど、どんなに高級で美味しいものでも家庭で使われると「冷凍なのに」とか「レトルト」なのに美味しい、などと評価の前に壁ができている。冷遇はされていないのに「料理」というものからの差別的距離感が残り続ける。同じものでもレストランの厨房の奥で温めなおされ、盛り付けされシェフの最後のプレゼンテーションが加えられ、給仕にサーブされると、それはどうも「料理」となるらしい。たとえそれが外のセントラルキッチンで調理されレトルトにしたものだとわかっていてもだ。「見える」と「思う」が介在するとそれはすでに「料理」というステージに上がっている。
よって、ここで勝手ながらサミュエルの言葉に『調理する動物が人類であり、料理をすることができるのが人間だと』補足しておきたい。昔から前述のサミュエルに異を唱える学者もいるだろう。もちろん猿が芋を洗って食べることも、肉を地中に埋め熟成発酵させてから食べる熊がいることも多くの人に知識としてある。補足の理由は、料理をして自分以外に振る舞う歓びや楽しさを知っているのが人間だけだと思うからだ。ここのところは学者も反論できないだろう。今のところではあるけれど。
料理ゲームの戦いは始まるのだろうか?
そしてもう一つの関心事は進化し続けるAIが調理を超えて人間の作る「料理」の意味に到達するか。もしくは「料理は無駄だ」と判断してしまうかどうかだ。調理ロボット、寿司ロボットがぞくぞく生まれ活躍し始めている。これは故キューブリックに映画にして欲しかった。人間とAIの料理対決、いや人類の未来をかけた料理ゲームのような。
出版にたずさわることから社会に出て、映像も含めた電子メディア、ネットメディア、そして人が集まる店舗もそのひとつとして、さまざまなメディアに関わって来ました。しかしメディアというものは良いものも悪いものも伝達していきます。 そして「食」は最終系で人の原点のメディアだと思います。人と人の間に歴史を伝え、国境や民族を超えた部分を違いも含めて理解することができるのが「食」というメディアです。それは伝達手段であり、情報そのものです。誰かだけの利益のためにあってはいけない、誰もが正しく受け取り理解できなければならないものです。この壮大で終わることのない「食」という情報を実体験を通してどうやって伝えて行くか。新しい視点を持ったクリエーターたちを中心に丁寧にカタチにして行きたいと思います。