人類の生活の革命は、ガスコンロの登場だといっても過言ではない。薪や炭を使わず、かつ安定した火力の調節ができ、なにより台所がかさばらずにコンパクトで済む。
台所のこの革命は、のちに料理に、そして家の間取りにまで及んでいく静かな一大革命だった。
このガスコンロの祖型を考案したのがアレクシス・ブノワ・ソワイエというイギリスの料理人だった。
名前からしてイギリスっぽくないが、彼は亡命フランス人である。イギリスではソイヤーと発音される。
彼は1810年にパリの東側、今だと車で40分ぐらいのモーという場所で生まれた。
11歳のときにパリで料理人修行を始め、17歳でパリの有名レストランで腕を磨いたといわれる。彼が20歳のときに外務省の料理人になったが、ここが運命の分かれ道だった。
外務省料理人になって間もない7月。シャルル10世王政下の首相ポリニャックの晩餐会の準備をしている時に、突如として蜂起したパリ市民が乱入してくる。ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』で有名な、あの七月革命の勃発である。
イギリスへ逃亡
貴族や聖職者を優遇するシャルル10世の政治は、フランス革命以前への逆戻りを意味していた。パリ市民にしてみれば、政府の倒し方は20年前のフランス革命で心得たものである。政府打倒のために群衆は再び蜂起した。
とばっちりを食ったのは着任1ヶ月も経たないソワイエである。何にも関係ない料理人だが、群衆にしてみれば「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりに晩餐会の料理を支度していた料理人2人を射殺。ソワイエはエプロンとコック帽をとって群衆に混ざり、革命の歌「ラ・マルセイエーズ」を歌うと群衆は大合唱。その隙に逃げ出し、翌年に遥かイギリスまで大脱出する。
ソワイエはいくつかのイギリス貴族のお抱えのセレブレティ・シェフになり、イギリスの社交クラブ「リフォーム」の総料理長に就任する。
別にリフォーム会社の集まりではなくて、選挙法改正(Reform Act)の議員たちの集まるクラブとしてできたものである。
ソワイエは総料理長として新しいクラブハウスの地下厨房の設計に携わる。そこで考案されたのが、最初の話にでてきたガス調理台である。
このクラブハウスのあるペル・メル街にはいち早くガスがひかれていて、彼は調理と最新技術のガスを掛け合わせるという今までにない道具を発明する。なにしろ炭で料理するには火がついて調理できるまで時間がかかって早朝から仕事をしなければいけなかたし、火力調整が難しい。さらには当時の石炭から出る有毒ガスで調理人の健康被害があったからだ。
大人数で使っても邪魔にならないコンロを発明し、高さにもこだわり、重いものにはキャスターをつけるなど、機能に基づく現代の台所設計の祖型を作ったといってもいいかもしれない。この新技術と料理とを掛け合わせたニュータイプの厨房は瞬く間に有名になり、ロシア皇帝がロンドンを訪れた際にも訪問したとソワイエの伝記に書かれている。
ちなみにその伝記はこちらである。
このキッチンがリフォームクラブを有名にし、そしてソワイエ自身の料理本はベストセラーになり、ソワイエはシェフ界のスターダムにのし上がっていくが、彼は1847年、政府からの指名を受けてアイルランドに派遣されることになる。
飢餓のスープ
ソワイエがアイルランドに派遣されたのは、アイルランドは大飢饉が発生していたからである。いわゆる「ジャガイモ飢饉」というもので、アイルランド人の主食であるジャガイモが胴枯れ病に大量感染して枯れ死に、英国政府の無関心が事態をさらに悪化させ、アイルランド人口の20%が死亡、加えて20%が国外逃亡してしまう。アイルランド人口が40%近く減ってしまったという未曾有の人口激減が起こっていた。
アイルランドの生活や歴史は、ジャガイモ飢饉以前・以後で大きく様変わりしてしまうことになる。
ちなみにこの時にアメリカへ逃れた移民一族の末裔が、後に大統領を輩出するケネディ家である。
終息をみせない大量餓死で政府は重い腰を上げる。あくまでもそれは人道的な観点からではなく、財政上の危険という理由からだった。政府は1847年2月に臨時法「スープ・キッチン法」を発令。アイルランドでスープを無料で給食することになり、その給食要員としてソワイエは派遣されたのである。
もっともソワイエは、それ以前からイーストロンドンの貧民街でセレブレティ・シェフでありながら貧民への無料のスープ炊き出しを行っていたのだが、流石にアイルランドでは勝手が違っていた。
現地には食材らしい食材がないのである。
アイルランドはイングランドの食料供給地であったから、イングランドに食料が輸出をされ続けている。
派遣されたソワイエの使えるものは輸出されなかった大麦、小麦、玉ねぎ、牛肉のクズ肉、牛の骨程度。ソワイエはこの限りある予算と食材の中でスープを作るが、これを「美食」にまで昇華させようと試みる。貧しい食事であろうとも、それは美味しくてはならないのが、ソワイエの流儀だった。
牛の骨と玉ねぎでブイヨンを取り、クズ材料だが美味なる「飢餓スープ」を考案してこれを数千人の人々に無料で提供し続けた。そして彼は「The Poor Man’s Regenerator」という低予算の材料を用いた料理レシピを本にして公開し、その本の売り上げをアイルランドに寄付をしたのである。
当時彼のスープを「ケチスープ」といって批判する向きもあった。
スープ自体の栄養価は限られているし、そもそもスープぐらいで飢饉による餓死者に歯止めをかけられないのは仕方のないことだ。結局、このスープ・キッチン法自体が7ヶ月で打ち切りになる。
万人のためのレストラン「ソワイエの饗宴」
ソワイエは数ヶ月にわたるアイルランド派遣のあと、名門クラブ・リフォームを退職し、フリーランスの料理人になる。
王都ロンドンはアイルランドの惨事とは裏腹にロンドン万国博覧会に向けて盛り上がっていた。その万博側からソワイエにケータリングを担当してほしいという打診を受けて作ったのが「ソワイエの饗宴」という贅と意匠を凝らしたアミューズメント・レストランである。
大衆誌の『パンチ』はこの時のソワイエのレストランに悪意のある諷刺画を載せている。
中国人とおぼしき人間の注文の食卓には鳥の巣、ネズミのパイに子犬、こんなものを出す、と。
万国博覧会であるから万国からやってくる。ソワイエは、いかなる国のいかなる食にも合わせて対応しようとしたことへの揶揄である。ソワイエは、食に国は関係ないと考える極めて開明的な考えを貫き続けた。
さらにソワイエは、階級社会の当時にあって、食から階級も取り去ろうとした。高い料金の高級な「ソワイエの饗宴」本館だけではなく、一般市民や万博を見学しに来た労働者のために1500人収容できるロンドン最大の大衆食堂「万国の野営地」というレストランも用意した。
あまりに時代の先をいきすぎた発想だったかもしれない。階級社会の当時にあって、貧乏人の利用するところを利用したくないと上流階級は思ったであろうし、労働者階級にしてみれば有名シェフのところで安く食べられるわけがないと思って最初から訪れなかったらしい。結局、巨額の赤字を出してこのレストランは閉店することになる。
「万国の、万人が集うレストラン」が受け入れられるには、あまりに時代が早すぎたのだ。
その後、この戦う料理人は、彼はフローレンス・ナイチンゲールと同じ帷幕に集うことになる。
1853年に勃発したクリミア戦争である。
地中海を求めて南下するロシアに対抗して英・仏・サルディーニャ・トルコとが同盟を組んだ大規模戦争である。
ナイチンゲールは人とは思えないほどの人権蹂躙をされた負傷兵たちに対する不衛生な医療現場の改善のために戦った。
伝説のセレブレティ・シェフのソワイエも自費でこのクリミア戦争に身を投じる。彼の武器はあくまでも武器ではなく、料理である。
イギリス兵に支給された食事は「ドッグフード以下」と言われ、食べると食中毒に苦しむ兵士が多数いた。マズイ上に食中毒になり、しかも栄養価が低くて栄養失調に陥る兵士も多かった。まさに毒物がイギリス兵に支給されていたのである。
ソワイエが来る以前は食事は当番制で、料理も知らない男たちが、トイレに行った手も洗わないままに食材をこねくり回していたのである。
ソワイエはイギリス軍の調理改革に着手する。料理は専任でなければならないと料理人を教育。彼らに衛生的な調理方法と栄養を学ばせ、全ての聯隊にソワイエの教育を受けた専属の聯隊料理人を付属させた。
軍病院の食事改善もソワイエが手がけた。医療ではナイチンゲールが、食事ではソワイエが尽力していたのである。
「不潔で、栄養失調になる、マズイ食事」が「衛生的で、栄養十分の、美味しい食事」に変わるという奇跡を起こしたのである。
彼は全ての人、貧富や階級に関係なく食の素晴らしさを伝えようとした。
クリミア戦争の最中の1854年の彼の著書『The Gastronomic Regenerator』(訳せば『美食の改革者』か)で、高価な道具や高級食材を用いない庶民向けの食事レシピを考案し、世に広める。
王侯貴族のお抱えセレブレティ・シェフに甘んじることなく、人々の中に自ら飛び込んでいく「戦う料理人」であった。
しかし1858年、ソワイエは48歳の若さで急死する。
戦う料理人であり、万人のための美食の伝道者であり、発明家であったが、階級社会の当時において彼は、異国から来た「使用人」「労働者」にすぎないとみなされていた。所詮はコック。そういう扱いだった。
彼の葬儀にはリフォームクラブの貴族たちも、英国軍の高官も現れなかったと、ソワイエの元秘書が嘆きを書き残している。
そして今でさえ、ナイチンゲールの名前を知ってはいても、ソワイエの名前と業績を知る者は、少ないのである。
私は、だいたい数日に一食しか食べない。一ヶ月に一食のときもある。宗教上の理由でも、ストイックなポリシーでもなく、ただなんとなく食べたい時に食べるとこのサイクルになってしまう。だから私は食に対して真剣である。久々の一食を「適当」に食べてなるものか。久々の食事が卵かけ御飯だとしよう。先に白身と醤油とを御飯にしっかりまぜて、御飯をふかふかにしてから器によそって、上に黄身を落とす。このときに醤油がちょっと強いかなというぐらいの加減がちょうどいい。醤油の味わい、黄身のコク、御飯の甘さ。複雑にして鮮烈な味わいの粒子群は、腹を空かせた者の頭上に降りそそがれる神からの贈物である。自然と口から出るのは、「ありがたい」の一言。