2023.11.28

ボージョレ・ヌーヴォーの本義 毎年片町で行われるボージョレ解禁パーティーに潜入してみた

ボージョレとは、フランス南東部の地名。ボジョレーって言う人もいますし、そこはもう誤差。ワイン名としてボージョレを名乗るためには、赤ワインはガメイ種という葡萄品種を使っていなければならぬ、というルールがある。

ヌーヴォーとは、Nouveauで新しいという意味。例えば、今回ボージョレ解禁パーティーに出た「ドメーヌ・ラフォレ」は2023年9月7日木曜日の朝に初日の収穫を始め、トマとピエールは10月17日火曜日に瓶詰めをしている。なんとこの短いスパン。

当然、熟成などはしていられない。マセラシオン製法という特殊な製法で作り上げ、ボージョレ・ヌーヴォーとは熟成を経たワインとは、全くの「別物のワイン」なのである。

ちなみに「過去100年で最高の出来」「ここ10年で最上の出来栄え」など毎年のキャッチコピーが特徴的なボージョレだが、これは酒販店が自分でつけているキャッチコピー。

でも人生的には見習うことが多いではないか。常に自分は過去最高、過去最上というこの確固たる自己肯定・自己包容力の高さ。梵天丸もかくありたい。

実は、ボージョレ地区は、実はワイン史において非常に重要な意味を持つ土地なのである。

ヴァン・ナチュールといわれる自然派ワインが最近では飲食店に置かれることが多くなったが、「自然派ワインの父」と呼ばれたのが、マルセル・ラピエール。ヴァン・ナチュールは、ボージョレが発祥なのだ(現在は、マルセルは帰幽、ドメーヌは長男のマテューが継いでいる)

さて、表題の通り、片町のコアビルというグラインドコアなビルの中にある『スナック・パンチ』という店で、ボージョレ解禁日にバブリーな店内で、毎年バブリーなボージョレパーティーが行われ、非常に美味しいボージョレが飲めるというので潜入を試みた。

まあ、私が選んだワインを東京から運んできてるんだけどね。

今回のラインナップはこちら。

・一番左のサウスパークみたいなエチケットが、レミ・デュフェートル。見た目がなかなかいかついので、ボージョレ番長と心の中で呼んでいる(まだ会ったことないけれど)。
デュフェートルのワイン人生は今から17年前に始まる。2006年に葡萄作りを始め、醸造設備を持っていなかったために地元の協同組合に売るという葡萄生産者からスタート。
ある時に納得のいく葡萄が作れるようになり、「これで醸造してみるか」とテスト醸造して、自然派ワインをマルセル・ラピエールと牽引していたジャン・クロード・ラパリュらに試飲してもらうと「ちょ、おま!めっちゃ才能あるやんけ!」と才能を見出され、醸造所を作って独り立ちすることを提案され、2011年に自身のドメーヌを立ち上げる。12年目の比較的新しいドメーヌである。
若い果実み、木苺のようなフルーティーさ。葡萄の作り手から始まった葡萄作りの美味さを感じられる一本である。

・左から二番目がジャン・クロード・ラパリュのワイン。さきほどのデュフェートルを見出したのが、このラパリュ。
ガメイ種の葡萄の求道者である。ヤングジャンプで連載されていた『ソムリエール』という漫画にもラパリュのワインが登場していて「エスニックな香りで、ボジョレーとは全く違う!」「シャトー・ラフルールのような深淵な味わい」といわれていた。(※シャトー・ラフルールは、ボルドーのポムロール地区にある上級クラスのシャトー。エスニック感があるから、この表現がされたのだと思う)。
ガメイ種がガメイ種のワインと比較されるのではなく、メルロ、カベルネ・フランのワインと比較される点で種を超越している。

・その隣が、ジャン・マルク・ラフォレボージョレ・ヴィラージュ・ヌーヴォー2023。以前にも書いたことがある、あの天才児ラフォレのボージョレ。2021年版アシェット誌では最優秀醸造家にラフォレのドメーヌが選ばれている。

ここでデュフェートルとラパリュからラフォレを飲むと、「ボージョレ・ヌーヴォーといってもこんなに味が違うのか」ということを楽しんでもらえる。抜栓したばかりの時から、徐々に味が開いていって、最後の方にはかなりアロマティックになっていく。まあ、その前に飲みきっちゃうんだけれど。

・ラフォレの隣には同じくラフォレの「レニエ」。こちらは2022年のもの。ボージョレ・ヌーヴォとは違うボージョレというものを入れてみた。

・そして隣にあるロゼもラフォレドメーヌの2022年。とりあえず一杯目にはロゼが飲みたい。

酒の文章を素面で書けるかい、というので私も酒を飲みながら失礼しております。

今回のボージョレ・パーティーで一番人気だったのは、ラパリュのワイン。

カルヴァドスのようのような華やかさと芳香が特徴で、これがボージョレ・ヌーヴォーなのかと初めて飲む人たちの度肝を抜いたようだ。

個人的にはこのフルーティーさ、軽快さは、ボージョレ・ヌーヴォーの持ち味。私はワインが苦手、という人にお勧めしたいのがボージョレ・ヌーヴォーなのである。

ボージョレ・ヌーヴォがマズイという残念なひとびと

ちょっと言いたいことを言わせてもらおう。

ボージョレ・ヌーヴォーの記事を書くと必ずいるのが、ボージョレ・ヌーヴォーなんて日本がバブルの時に作った消費文化のものだからマズい、というオタンコナス。なんでその手の人たちは調べないで言うのかね。ボージョレの歴史については過去にも書いたけれど、当然ながら日本が作ったものではない。なんなら日本がダメにしたのだ。日本はコストを下げるためにペットボトルや紙パックでの激安品を販売して、品質低下とファン離れ(ボージョレが安物に成り下がった瞬間)を起こしたりしたためにボージョレ地区の生産者団体が日本でのペットボトル販売を禁止するように動いたけれど、これは結局実現しなかった。

ボージョレ・ヌーヴォーはマズイもの、という人がいるけれど、不味くしたのは日本人なのよ。

そもそもその人は、ボージョレ・ヌーヴォーと食べ物を一体なにと合わせたのか、という話である。ボージョレ・ヌーヴォーの立ち位置は、カジュアルワインである。カジュアルに楽しむ。ワイングラスでなくていい、器はコップでいいのだ。味わいの特徴も熟成されていない果実っぽさにある。これを熟成されたワインのようにこってりとしたフレンチや肉料理に合わせるのはお勧めしない。

今回、ボージョレ・パーティーで合わせた食べ物はこちら。

海苔巻きである。醤油やみりん系の和食と実は非常によく合う。

個人的には天ぷらが非常によく合う。あとは無難にチーズ。

気負わない食べ物と気負わない人と一緒に楽しむのがボージョレ・ヌーヴォーなのかもしれない。

正直いうと、ボージョレ・ヌーヴォーはおすすめしない

この表題はさっきと言っていることが違うじゃないかと思うかもしれない。

ボージョレ・ヌーヴォー肯定派は今でこそレアで、今は否定派がカッコいいという流れになっているのは確かではあると思う。

この一つの理由は、バブル頃よりも色々なワインが日本にやってきて、日本人が色々なワインの味を知ったことが原因の一つにあると思う。熟成ワインと摘んでから1ヶ月で醸造したワインとを比べようというのがそもそもナンセンスなのだが、美味しい熟成ワインがたくさん日本に到来したことは大きいだろう。

そしてもう一つは、コストの問題である。この点に関してそれは全くの同意で、推しの作り手さんがいないのなら、別にボージョレ・ヌーヴォーを買って飲まなくていいんじゃない?とは思っている。それは、価格が高くなる、ということだ。

枕でちょっと話をさせて頂いた通り、ドメーヌ・ラフォレでは9月7日の朝に初日の収穫を開始したものをその年の10月17日に瓶詰めし、解禁の1週間前に各店舗に届いていなければならない。今年では11月9日。この驚きの工程である。ワインを解禁日に間に合わせるために航空便で運ばざるを得ないのだ。

さらに解禁日直前には輸送が集中するので、航空運賃が高騰。さらに今は円がアメリカと日本の失策のせいで非常に弱い。これらのコストは、ワインの料金に上乗せされざるを得ない。価格の内訳のうち、ほとんどが高騰した航空運賃代といってもいい。

そうなると「この金額なら、他にもっと美味しいワインがあるなあ」という話になってしまう。そういう点から、「ボージョレ・ヌーヴォー美味しくないよ(同じ価格ならもっと美味しいものがあるよ)」という意見については、正鵠を得ている。実にその通りだと思う。

値段を見ると楽しめない、のは確かにそうかもしれない。

なので、私は片町のスナック・パンチで「ボージョレ・ヌーヴォー解禁パーティー」をする時には、値段は一切非公開にしている。私が自腹切って持ち込んでるんだから、いいのである。パンチのママもこのワインの値段を知らないし、知って欲しいとも思わない。

かつて日本に夢や成長を抱いていた過去の気風の名残として、そしてボージョレ・ヌーヴォーの美味しさを人と分享するために、私は11月の第3木曜日に毎年金沢のスナック・パンチに現れるのである。

私は、だいたい数日に一食しか食べない。一ヶ月に一食のときもある。宗教上の理由でも、ストイックなポリシーでもなく、ただなんとなく食べたい時に食べるとこのサイクルになってしまう。だから私は食に対して真剣である。久々の一食を「適当」に食べてなるものか。久々の食事が卵かけ御飯だとしよう。先に白身と醤油とを御飯にしっかりまぜて、御飯をふかふかにしてから器によそって、上に黄身を落とす。このときに醤油がちょっと強いかなというぐらいの加減がちょうどいい。醤油の味わい、黄身のコク、御飯の甘さ。複雑にして鮮烈な味わいの粒子群は、腹を空かせた者の頭上に降りそそがれる神からの贈物である。自然と口から出るのは、「ありがたい」の一言。