2019.01.08

正月料理の伊達政宗 〜おせちの伝統を探る〜

伊達政宗像

人のお家のお雑煮の中身や味を聞くと、その家の出身地域がわかることがある。

時として別の地方同士の夫婦が結婚すると、ハイブリッド化した雑煮が誕生するから、一つの料理名でありながらこれほどバリエーションに富んだ料理もなかなかない。

雑煮の歴史は、室町時代に遡るとされる。

古く雑煮は史料の中では「烹雑(ほうぞう)」という名で登場する。

「烹」は「煮」という意味。烹雑には海産物は入るし、餅も入るし、いろんな野菜(当時は野草も野菜として食べている)を煮て食べていた。
まさに「雑煮」の始まりである。

しかし雑煮といえば具材の違いもさることながら、関西と関東では味付けが違う。

これは江戸時代でもそうで、江戸時代後期の百科事典的な『守貞漫稿』という書物によれば、

大阪の雑煮は丸餅に味噌仕立て、小芋、豆腐、大根、鮑が入る。一方江戸では切り餅すまし汁で、小松菜と鰹節を用いる、とある。

江戸では「みそがつく」を嫌って味噌仕立てではなくすまし汁にして、切り餅なのは武家の都らしく「敵をのして切る」という武士的な縁起のよさからそうなったと説明されることがある。
よくマナー教室とかで講師が言いそうなことである。

が、ほぼウソだろう。

江戸幕府によって人口過密になった大都市江戸では、餅をいちいち丸めるよりも、のしてから包丁で直線を引いて切った方が大量に作れる。
縁起かつぎはそのあとについた話。
縁起がモノのはじまりではなく、今あるものに縁起のよさを仮託するのが人類の歴史というものである。
 

ちなみに我が家は祖母が生きている頃にはおせち料理を食べていた。
出身は東京。ずっと前の先祖は京都の園部にいた。

おせち料理はその家がどの地方の生まれかよく現れるものといわれている。
ためしに思い出してみると、、、

  • 黒豆
  • 数の子
  • 田作り(ビールのつまみのスナックに入っているかんじの小魚が甘辛く煮てあるもの)
  • たたきごぼう(ごぼうを酢湯でさっとゆでたもの)
  • 昆布巻

以上。極めて質素だった。

子供の頃、私は正月は貧乏料理の日だと思っていた。
お年玉が貰えなかったら、テレビはつまらないし、料理はショボいし、親戚がやってきてはタバコの煙を蔓延させていく。
正直なところ、正月にいい思い出なんてあまりない。

子供の頃、デパートとかで派手な色彩の「おせち料理」がなにかケーキのような甘いお菓子のようで、美味しくみえたものだった。
祖母に「あれが食べたい」とねだってみたことがある。

祖母の返事はにべもない。「あれは食べるものじゃない」という。「あれは見る用の飾りで、人が食べるものじゃない」と。

ウソばっかり、と当時は思ったのだが、実はまんざら外れでもなかった。

明治期の日記や文献や雑誌類には、正月料理の寒天・卵焼きなど色彩のある食べ物は、手をつけるものではなくて、焼き物と一緒にお土産として持って帰る「観賞用」だという記述がある。

かといって食べれないというわけではない。お祝いに出されたものを持って帰って食べる「お土産用」のものだったのだ。

この現代おせちの系譜は明治以降にできあがっていったものだが、江戸時代にもちゃんとおせちはあった。

その中でも仙台藩藩主の伊達家の正月料理は豪華さで非常に有名であった。
おそらく仙台藩の祖・伊達政宗が原因だろう。
それは政宗が、非常に料理にうるさいオジサンだったからだ。

戦国大名・伊達政宗に9歳で小姓として仕え、政宗から直接に話を聞き(というか強制的に聞かされ)、臨終まで見届けた人物が遺した記録に『木村宇右衛門覚書』というものがある。

10歳にもならない子供相手に政宗がいろんな過去のことを語っているのだが、政宗が孫に自慢話を聞かせるかの如く話を盛りまくる。政宗爺さん、当時の人間が誰も生きていないと思って言いたい放題である。


このお小姓は、政宗の語った話や行動などを書き残しているのだが、生活や彼の考案したレシピに至るまで政宗についての様々なことが載っている。

政宗が料理について語ったとされる言葉がある。

「少しも料理心なきはつたなき心なり」
(訳:料理全然できない人って、心が貧しいよね)

そこまで言う政宗、献立作りが朝の日課に組み込まれいた。

朝起きると、まず顔を洗ってサッパリする。

そして朝のタバコの時間。

そしてトイレへ。
トイレといってもトイレつきの書斎で、マンションの一室の広さほどある。
そんなトイレで2時間ほど、朝の献立を考えた。

新しい創作料理も開発するし、政宗自身が包丁を握ることもしばしばあった。
グロテスク料理対決をして、政宗は小ネズミの汁物を考案。
自ら作ってそれを飲んでしまい、食中毒で生死の境をさまよったこともある。
負けず嫌いのアマチュア料理人・伊達政宗。

ちなみにこのタイプの人間というのは、他人の食べ方にもうるさい。
政宗の大好物はホヤなのだが

「ホヤが入ってたら、その汁も飲みなさい!」

と、家臣たちに強制している。ホヤ嫌いだっている筈なのに。もはや政宗、自分が美味しいと思っているものを相手と共有したくてたまらないお料理おじさんである。

そんな政宗を祖とする仙台藩伊達家であるから、おせち料理もかなりのこだわりである。

最後の仙台藩藩主の伊達慶邦の正月料理が詳細に今に残っているが、こちらはレシピをみると三汁十六菜ある。
普段が一汁三菜とすれば、3倍以上の豪華版だ。

伊達家の正月料理の本膳には海鼠腸(このわた)、二の膳には伊勢海老が出てくることになっている。
伊勢海老は仙台では獲れないから、わざわざこのために手に入れることになる。
正月料理に金は惜しみません。
さすがは食い道楽・伊達政宗。

しかし政宗であろうとも、見た目の派手さでは現代のおせち料理の方に軍配が上がる。

今でこそ赤い色がバーン、栗きんとんと数の子の黄色さドーンと、赤と黄色で構成されているようなケバケバしい「現代おせち」だが、おせちは本来、お重の中に五色が配されているものだった。

五色とは、

青(現代でいう緑)・赤・黄・白・黒。

いわゆる中国の五行思想からきている。

東洋医学では青は肝、赤は心、黄は脾・白は肺・黒は腎の五臓に対応し、これらの色の食物を摂ることでそれぞれの五臓の気を補うことができると考える。
おせち料理とは本来、そうした医療食であり、願いを込めた特別な食べ物だったのだ。

かつて正月は、ただの年初めの1日ではなく、非常に大事な節目の日として認識されていた。

特に戦国時代の人々にとっては正月は特別な日だっただろう。
なにしろ、去年は生きていられたが、今年を無事に生きていられるかわからない。来年はこうして元旦を迎えられないかもしれない。

今年も生き抜いていかねば。。。

その一年の第一歩、起点となる大切な日が正月であった。

おせちとは、この一年を無事に生きていきたい、と切実に願っていた人々の、決意の一食だったのだ。
生きる覚悟の一食目、それが正月料理の本源なのであった。

Photo by shonbori

私は、だいたい数日に一食しか食べない。一ヶ月に一食のときもある。宗教上の理由でも、ストイックなポリシーでもなく、ただなんとなく食べたい時に食べるとこのサイクルになってしまう。だから私は食に対して真剣である。久々の一食を「適当」に食べてなるものか。久々の食事が卵かけ御飯だとしよう。先に白身と醤油とを御飯にしっかりまぜて、御飯をふかふかにしてから器によそって、上に黄身を落とす。このときに醤油がちょっと強いかなというぐらいの加減がちょうどいい。醤油の味わい、黄身のコク、御飯の甘さ。複雑にして鮮烈な味わいの粒子群は、腹を空かせた者の頭上に降りそそがれる神からの贈物である。自然と口から出るのは、「ありがたい」の一言。