日本人なら誰しも、一度は沖縄に移住してみたいと思ったことはないだろうか。私は、ある。
今から20年ほど前に那覇ではなくて、沖縄本島のちょうど真ん中ぐらいにある宜野座村という所に実験的に3ヶ月ほど住んでみたことがある。
3ヶ月すると東京に帰りたくないというか、夏休みを満喫して新学期に行きたくない小学生のような気持ちになったのである。まあ、小学校は登校拒否してあまり行ってなかったので、よくわからないのだが、多分こんな気持ちだっただろう。
さて、そんな沖縄生活は毎日外食。毎日決まった店に行っていたら、たまには家でご飯炊いて食べなさい、と作った惣菜をたくさん、ことあるごとにお土産に持たせてくれた。
そして思ったことがある。
もらうオカズが、やたらと昆布が多い。むしろ大体、煮物は昆布だった。一生分の昆布はもう食べた気がする。
その店のおばちゃんが言うには、「沖縄は、昆布の消費量が日本一位」なのだという。
その時はふうん、と聞き流していたのだけれど、20年近く経った今になってから日本のコンブ消費量の推移を調べてみた。
一位は富山だが数年単位でみるとトップが山形、福井あたりが競い合う形になる。
最近の沖縄は概ね15位前後。遡って調べてみると、平成元年(1989)あたりから年々の減衰傾向が著しい。昆布料理の衰退ともいえるだろう。明らかに1990年代から食生活が変わりつつあるのがわかる。
薬学立国・富山藩
富山県が昆布消費量で上位なのは歴史的になかなか感慨深い。実は沖縄のみならず、中国に昆布をもたらしたのも富山だからだ。
当然ながら沖縄も、富山も昆布がとれない。北海道で産するものである。
昆布は江戸時代、廻船問屋が北前船で蝦夷地(北海道)から富山、福井(小浜)、下関、長崎、大坂へと運んでいたのである。
日本の昆布は長崎を経て中国に輸出される。その昆布貿易では、あの有名な富山の薬売りが仲介をしていたのである。
どうして薬屋が昆布?と思われるかもしれないが、昆布は1~3世紀頃に成立した最古の本草書『名医別録』という書物では、
「昆布。味は鹹(しおからい)、性は寒。無毒。十二種の水腫、癭瘤、聚結気、瘻瘡をつかさどる。東海に生じる」
と、ある。昆布はリンパ結節や水腫、むくみ、腫れ物、甲状腺異常などに効用のある漢方薬として中国では特に人気だったため、富山の薬売りがこれを扱っていたのである。
薬といえば富山藩、富山の薬売り、と言われるまでにはなかなか大変な道のりがあった。
好きでやっていたわけではなく、それらは経済的独立をするための必死の策だったのだ。
富山藩は加賀藩の支藩、簡単にいうと分家である。しかし藩として独立するということは、参勤交代や幕府へのインフラ整備事業に協力しなくてはいけない。これらが容赦無く経済基盤がただでさえ不安定な富山藩の財政を圧迫した。富山藩、実は非常に貧乏な藩だった。さらに領内の川は氾濫するしで、踏んだり蹴ったりである。
そこで経済的独立をするために、薬学で立国することを目指した。そもそも石高数は平野部の大きさに比例するものだし、小さな富山藩は地道に新田開発をする一方で、換金しやすい特殊産業として製薬業を保護・奨励した。結果、富山藩は薬種・製薬業の興業に成功したのである(それでもずっと経済は逼迫し続けていたのだけれど)。
そんな藩の経済を担った基幹事業・富山の薬売りが目をつけたのが琉球だった。
イリーガル・コンブミクス
当時、琉球は中国と薩摩の二重支配下に置かれていた。琉球は中国貿易を行っていたため、大量の漢方薬の薬種が琉球に輸入されていたのである。
昆布は中国貿易では銀と対価される海の宝石であったから、薩摩側も昆布利権が欲しい。富山側でも薩摩が権利を持っている琉球の交易が欲しい。双方の利害の一致から、富山と薩摩が交渉を試みる。薩摩藩は、琉球への昆布輸送を条件に、富山の薬売りの商売を認めることとなる。まあ、幕府の目を盗んでの密貿易なんだけれども。
そうして、富山の薬売りの手を経て、琉球に遙か北国の蝦夷地のコンブが大量に入ってくることになるのである。
とはいえ、琉球国内で消費されたわけではなかった。あくまでも、これらは中国への進貢貿易品であり、皇帝へ献上品として貢納して対価を得るための貴重な輸出品であった。現に、琉球国王から臣下への下賜品に、少量の昆布がみられる。部下への労いで王がわざわざ昆布をプレゼントする。どれだけの貴重品かがわかるだろう。
貿易品目であったから、クオリティコントロールは非常に重要である。選別する中で、売り物にならない規格外品が一定量出てくる。このクオリティチェックの「規格外品」が琉球市場に出回ったことで、沖縄に昆布が定着していくのである。
しかし豚肉と同じで、規格外品であっても高級品であるのには変わりがなかった。そのため、特別なハレの日の儀礼食として食され、昆布は琉球人のあこがれの食品でもあったのである。
話は戻るのだが、よく通った食堂のおばちゃんが持たせてくれた昆布は刻まれたものが多かった。
たとえば沖縄の伝統料理・クーブイリチー(昆布の炒め煮、のウチナーグチ)に使われている昆布も細切りである。初めて食べた、昆布の炊き込みご飯(クーブジューシー)も細切りされた昆布。なるほど、規格品外がはじまりだものね。
あと沖縄料理には、干し椎茸も切り干し大根、そうめんも使われる。そうめんは、ソーミンチャンプルーでお馴染み。昆布もこれらも、高温多湿な琉球では食材が傷みやすく、保存食材として乾物は非常に便利であったことに由来している。
食文化はまさに、歴史の多層な蓄積のタマモノなのである。
私は、だいたい数日に一食しか食べない。一ヶ月に一食のときもある。宗教上の理由でも、ストイックなポリシーでもなく、ただなんとなく食べたい時に食べるとこのサイクルになってしまう。だから私は食に対して真剣である。久々の一食を「適当」に食べてなるものか。久々の食事が卵かけ御飯だとしよう。先に白身と醤油とを御飯にしっかりまぜて、御飯をふかふかにしてから器によそって、上に黄身を落とす。このときに醤油がちょっと強いかなというぐらいの加減がちょうどいい。醤油の味わい、黄身のコク、御飯の甘さ。複雑にして鮮烈な味わいの粒子群は、腹を空かせた者の頭上に降りそそがれる神からの贈物である。自然と口から出るのは、「ありがたい」の一言。