2020.10.26

季節が手繰る縁

更科のもりそば

これは2008年から2013年まで ニュー・サイエンス社発行「季刊・四季の味」に『銭屋の勝手口』として連載された銭屋主人・髙木慎一朗による随筆の一編です。連載では料理人である筆者の目と体験を通して日本料理の世界と人、美味しいものなどについてが綴られています。今回はNo.54 2008年9月17日発売号に掲載されたものを出版社の許諾を得て掲載いたしました。 


暑い夏がようやく過ぎて、ずいぶん過ごしやすくなったと思いきや、あっという間に風は秋の気配を運んできました。

銭屋の近くにある田んぼの稲穂は、まだ鮮やかな緑色でありながらも、その穂先にはしっかりと実を携えて、陽の光を浴びています。

買ったばかりのクロスバイクで海岸沿いまで走ってみれば、ついこの間まで素肌にべっとり張り付くような湿気を含んでいた潮風すら、何とも心地よく感じてしまうのは、まさに季節の移ろいのせいでしょうか。

金沢の夏といえば、泥鰌の蒲焼や加賀太胡瓜の餡かけ、金時草のお浸しなどが真っ先に浮かびますが、子供の頃から何よりも夏を感じさせてくれる料理は、こぞくらの生姜煮でした。

こぞくら、とは鰤の幼魚のことです。金沢では鰤の幼魚から「こぞくら」「ふくらぎ」「がんど」「鰤」の順で呼び名が変わります。聞くところによると、鰤になるまでの出世途中の呼び名は、日本中で百以上あるそうです。これは、いかに鰤が日本中で親しまれ食されてきたかということを如実に表していますね。

生姜煮にするこぞくらは、10〜15センチほどの小さいものです。いくら鰤とはいえ、これだけ小さければ脂が十分にのっているわけがありません。ですから、醤油と砂糖による味付けも比較的あっさりめに仕上げます。このあっさり加減が、私にとって夏の味なのです。

そして、私にとっての夏の香りといえば、梅干にほかなりません。厳密には、梅を干しているときの匂いなのですが。

梅干し作りは、塩を当てた梅を漬物桶に入れて重石を乗せて漬け込み、水(梅酢)で全体が浸るようになったら、塩揉みした紫蘇の葉を入れてもう一度漬け込みます。しばし後に梅と紫蘇を天日で干している間に真っ赤な梅干の色に変わっていくのですが、私の言う梅干の香りとは、この干している段階での香りなのです。

幼い頃に暮らしていた、当時の金沢市野田町は山や田畑に囲まれた、のどかな農村といえるところでした。真夏の間は至るところで梅を干していたので、そこら中で遊びまわっていても常に梅の香りの中にいたのかもしれません。

金沢の中心部に引っ越してから、梅の香りとは程遠くなっていましたが、後に料理人になって初めて自分で梅干を仕込んだとき、急に蘇った香りの記憶がまさにこれだったのです。

その瞬間、何とも懐かしい、まるで瞬時にして子供の頃に戻ったような、不思議な感覚に陥ったことを鮮明に覚えています。

夏の終わりは、同時に秋の始まりでもあります。秋の始まりとくれば、まず思いつくのは新蕎麦でしょう。新蕎麦を手繰るときの高揚感は毎年のことながら、たまらぬものなり、です。

今では金沢にも蕎麦の専門店がたくさんありますが、十数年前まではほとんどありませんでした。ましてや、蕎麦屋で一杯飲むなんて発想はなかったと思います。

ウチの先代は麺類が大好きでしたが、江戸前風の蕎麦屋が金沢になかったので、それを随分と嘆いていたような覚えがあります。

ある日、遊びに来ていた私の従兄に、「お前、麺好きだろう。いっそのこと蕎麦屋になったら?」と言ったのです。唐突に言われた従兄弟は、状況をよく把握していなかったと思うのですが、いとも簡単に、

「いいですね、蕎麦屋になります」とあっけなく応えてしまったのです。

そして、そこからの先代の行動は素早いものでした。「ヤツの気が変わらぬうちに」と一、二日で修業先を決めてしまい、数日後には本人を連れて、お世話になるお店に挨拶をするために出掛けていきました。もちろん、そのまま従兄は初めて訪れた長野で料理人のキャリアをスタートすることになったのです。

従兄が長野にいる間に先代は亡くなってしまいましたが、生前の先代に言いつけられたとおり、長野で数年修業し、酒を楽しめる蕎麦屋を勉強する為に東京へと移りました。

当時、私は東京の大学に通っておりました。

ある日従兄から電話がかかってきて、

「麻布十番の蕎麦屋に勤めているので、蕎麦をご馳走してやるから出て来い」

「それじゃあ、遠慮なく」

と夕方に出掛けた先は、総本家更科堀井さんでした。いわずと知れた更科そばの総本家であり、江戸前蕎麦屋の名店中の名店です。

「従兄がいつもお世話になっております」と女将さんに挨拶して席に着くと、いきなり冷酒が運ばれてきました。そして、「いたわさ」「玉子焼き」「焼き海苔」など、辛口の冷酒にぴったりの肴が次々と。旨い、旨いと何本かお酒を飲んですっかりいい気分になってしまった頃に、ふと疑問に思ったことがありました。

「蕎麦屋に来ているのに、なぜ蕎麦が出てこないんだろう」

その頃の私は、蕎麦屋で酒を飲むことを全く知らず、かなり時間が過ぎても蕎麦が出てこないのが不思議で仕方ありませんでした。そしてその疑問を女将さんに尋ねてみたのです。

「いつになったら蕎麦がでてくるのですか?」

「もうよろしいですか?スグにご用意いたしますね」

なるほど、まだまだお酒を飲み続けると思われていたようでした。

しばらくしてから、真っ白い名物の更科蕎麦や柚子を練りこんだ柚子切り、もちろんもりそばなど多彩な蕎麦が次々と運ばれてきました。

お酒を飲んだあとの手打ち蕎麦が、こんなに美味しいものかと感激しながらキレイに平らげていったのですが、どれだけ食べてもまだ足りない感じでした。従兄に許しを得て、お代わりもお願いして、ようやく満足した頃にはすっかり夜も更けていました。

私は蕎麦を一体どのくらい食べたのでしょうか。具体的な数は申し上げませんが、どうもその夜生まれたコースレコードは、いまだに塗り替えられていないようです。

余談ですが、更科堀井さんでの思い出はもう一つあります。前夜に飲み過ぎたせいで大学の卒業式に遅刻した私は、会場にわずかの時間だけ過ごした後、雨が降る中、番傘を差して、紋付袴に高下駄のまま麻布十番に繰り出し、友人とお酒と蕎麦を楽しんでいました。その後に少々赤くなった顔で学部に戻ったのですが、先生方にしてみれば、私が卒業式を抜け出して何をやっていたかは一目瞭然だったと思います。

今でも女将さんから、「あのときは一体何者がやってきたのかと思ったわよ」と言われる事があります。確かに、身長190センチの男が紋付袴に高下駄では、たとえ江戸前の蕎麦屋でも違和感がありますよね。

数年かけて更科堀井さんをはじめ一門の店で修業した従兄は、金沢に戻って念願の独立開業を果たしました。その際に、更科堀井のご当主のご好意で「更科」の名前を使わせていただくお許しをいただき、「更科藤井」の看板をあげて蕎麦屋を営んでおります。

更科藤井が開店して二、三日もたった頃でしょうか、私が仕事を終えてから、従兄の様子を見に行ったときのことです。扉を開けて店に入っていくと、「いらっしゃいませっ!」と随分元気な、しかも聞き覚えのある女性の声が聞こえてきたのです。

そんな女性スタッフはいなかったはず?と思いながら、中をよく見ると、その声の主は総本家更科堀井の女将さんで、厨房を見ると揚げ場(天麩羅などの揚げ物を作る部署)にはご当主が立っていました。どうやら、お祝い代わりに手伝いに来てくれたようです。

「どうしたんですか、堀井さん」と思わず話しかけると「藤井がきちんと仕事してるか、あまりにも心配だったんで金沢まで来ちゃったよ」

従兄のこととはいえ、何とも嬉しくて言葉になりませんでした。そして、彼がきちんと修業を終えたことを確信し、同じ料理人として誇りに思うと同時に本当に安心しました。

おかげさまで、私達まで堀井さん一家と身内の如く親しくさせていただいております。

銭屋にもいままでたくさんの方々が修業に来ましたが、その全てが円満に退社していったわけではありません。せっかくのご縁ですから、生涯にわたってお付き合いしたいと思ってはみても、現実ではほんのわずかだけなのです。

料理人として銭屋に入りたい、という若者達を私が面接する際に、入社の条件として必ず伝えることが一つあります。

「必ず円満に退職するように」

いかに時代が変わったとしても、この気持ちは変えたくはないですね。

石川県金沢市「日本料理 銭屋」の二代目主人。
株式会社OPENSAUCE取締役