2026.05.18

料理人の家ごはん 「出張先の夜食」

 料理人という仕事をしているが、思いのほか旅が多い。
東京や京都へ行ったり、海外へ渡ったり、気づけば一年の半分以上を金沢から離れた場所で過ごしている年もある。

 新幹線に揺られ、飛行機に乗り、知らない街のホテルに泊まる。
そんな暮らしを長く続けていると、どこへ行っても、夜になるたび同じことを考えるようになる。

「さて、今夜は何を食べようか。」

 料理人だから、さぞ毎日うまいものばかり食べているのだろう、と人から言われることが多々ある。
けれど、実際はそんなこともない。

 むしろ、出張が続くほど、心が求めるものは質素になっていく。

 例えば東京。
仕事を終えて外へ出ると、時計はもう23時を回っている。
ネオンは明るいのに、身体の方はすっかり疲れている。

 若い頃は違った。
せっかく東京に来たのだから、と名の知れた店を訪ね歩いた。
海外でも同じだった。
評判のレストランへ行き、その土地の名物を食べ、バーを探して遅くまで酒を飲んだ。

 それが楽しくなかったわけではない。

 けれど、いつ頃からだろう。
疲れている時ほど、人は静かなものを欲しがるのだということに気づいた。

 もちろん、ファインダイニングでの料理には、人を圧倒する力がある。
長い時間をかけて積み重ねられてきた仕事なのだと思う。

 だが、疲れた身体には少し眩しすぎる夜もある。

 そういう時、ふと入りたくなるのは、暖簾の静かな蕎麦屋だったりする。

 熱燗を一本。
板わさと焼き海苔。
それだけで充分だった。

 料理人というのは不思議なもので、普段は手の込んだ複雑な料理を作っていても、自分が疲れている時ほど単純な味を欲しがる。

 蕎麦前を少しやって、最後にせいろを手繰る。
あるいは温かいかけ蕎麦を静かにすする。

 鰹節の香りが立ち、醤油の匂いが鼻に抜ける。
その瞬間だけ、身体の力が少し抜ける。

「ああ、うまいな。」

 そんなふうに思う。

 職業柄、どうしても味を分析してしまう癖がある。
出汁の濃さ、かえしの加減、蕎麦の締め方。
けれど、本当に良い店というのは、そういう理屈を越えてしまうところがある。

 気づけば、頭の中が静かになっている。

 

海外でも、似たようなことがあった。

 以前、ニューヨークに滞在した時のことだ。

毎晩のように星付きレストランで立派なコース料理をいただいた。
どれも素晴らしい店だったが、三日もすると胃が黙って疲れてくる。

 そうなると、恋しくなるのは出汁だった。

 ある晩、ホテルへ戻る途中、小さな和食屋を見つけた。
暖簾は地味で、店の中も静かだった。

 カウンターに座り、日本酒を一合。
ほうれん草の胡麻和え。
冷奴。
それから鯵の干物。
味噌汁。

 ただ、それだけだった。

 けれど、その味噌汁を飲んだ瞬間、身体の奥がふっと緩むのを感じた。

 出汁には、人を安心させる力がある。
あらためて、そんな当たり前のことを思った。

 栄養だとか理屈だとか、そういう話ではない。
旅をしたり仕事をしたりして、疲れた時、人を元の場所へ戻してくれるような感じがする。

 毎日、調理場で当たり前のように引いている出汁なのに、外国で飲むと急に特別なものに思えるから不思議だ。

 そして、そんな時に思うのである。

 結局、自分は出汁の仕事をしているのだな、と。

 料理というと、人はどうしても華やかなものに目を向ける。
技巧や盛り付けや、珍しい食材。

 けれど、本当にその人の仕事が出るのは、椀物だったり、炊きたての御飯だったりするのではないかと思う。

 誤魔化しがきかないからだ。

 翌朝。
ホテルのカーテンの隙間から朝の光が差し込む。
コーヒーを飲みながら、その日の段取りを考える。

 すると、不思議と昨夜の味噌汁の余韻だけが静かに残っている。

 そしてまた、今日も料理をしようと思うのである。



髙木慎一朗(Shinichiro Takagi)の過去の寄稿はこちらから
https://riff.opensauce.co/author/shinichiro-takagi/
シリーズ対談 和食に見るそもそも旬論
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石川県金沢市「日本料理 銭屋」の二代目主人。
株式会社OPENSAUCE取締役