- 書名:人間は脳で食べている
- 著者:伏木 亨
- 発行所:ちくま新書
- 発行年:2005年初版 2016年第3刷
このところchatGPTで本の解説ができないかとトライしていた。というのはchatGPTを最初に使用するときに「試しに感想文を書いてもらって!」というのがあったからだ。つい最近LINEのAPIとして『AIチャットくん』がchatGPTのターボバージョンで登場したのでここぞとばかりにいくつか依頼してみたところ、一見、実に卒のない優等生な感想文があっという間に届いたのである。
文章の締めの多くが「この本は、非常に魅力的な一冊であると言えます」みたいな内容だ。これは大量の<感想文>のデータから抽出生成されたものだろう。丁寧でそんなに悪い気はしない。
しかし、問題があった。その感想文の内容が正しいかどうかの判断をするために膨大な時間を費やさなければならないということだ。感想文の中に知らない言葉や事柄が出てきたときに、続けてその内容について質問するとどんどん解説してくれるのだが、それがまた正しいのかわからない。なので何回もググって検証する。データが多く存在する書籍ならばかなり正確にまとめてくれる。chatGPTは発行部数が多くてもその書籍についてのデータが少ない場合、本文や外に書かれたワードの関連性をからどんどん創作を始める。つまり、こちらにとっての嘘をつき始めるわけだ。AIは嘘だと思っていない。これには笑ってしまうほど困ってしまった。
ちなみに本書の著者、伏木 亨(ふしきとおる)氏についての説明を求めたところ、こう返ってきた。
AIチャットくん <伏木 亨は、日本の音楽プロデューサー・音楽評論家で、1972年に編集者として音楽雑誌「ロッキン・オン」に入社し、のちに同誌の編集長に就任しました・・・彼の著書「すごい演奏力:「音を聴く」技術と感性を磨くために」は、音楽好きだけでなく多くの人々に読まれています。>
いやいや『ロッキン・オン』代々の編集長にそんな人はいなかったはず。それに1972年は渋谷陽一氏が自腹でミニコミ『ロッキン・オン』を創刊した年じゃないか。それにそんな本のタイトルあるわけない。
─ 教えて欲しいのは大学教授の伏木 亨のことです。
AIチャットくん「申し訳ありませんが、私が調べた限りでは、大学教授の伏木亨という人物は見つかりませんでした。もう少し情報を教えていただけますでしょうか」
ググればすぐに出てくるのに、なぜ?
─ 京都大学農学研究科教授です。
AIチャットくん「おっしゃる通り、伏木亨は京都大学農学研究科の教授で、植物の細胞生理学・バイオテクノロジーを専門として・・・」
「おっしゃる通り」をつけるのはすごい。日本人のクセを知っている。いや、<exactly>てことか?英語を翻訳している?
ちなみに伏木 亨は、1953年生まれ、日本の食品化学者で現在は京都大学名誉教授、甲子園大学副学長である。食品・栄養化学を専門としているが細胞生理学・バイオテクノロジーの専門家ではない。
自分としてはこのAIと対立する考えは微塵もない。むしろどんどん側にきて助けてくれることを願っている。ジェネレーティブAIは必死に創作しているのである。われわれのためにだ。感想文においては答えのある教師データは存在しないだろう。教師なし学習で未知の答えを導きださなければならない。
しかしながら現状ではAIの暴走する創作は止められない。これはむしろ、本を読まなくなり、その本についての意見をアウトプットしなくなった、検証なしで答えだけを探すようになった人間側の問題のように思う。AIのためには人間の知が必要だ。
で、本書は「人間は脳で食べている」というのだが、その伝達プロセスをAIが代わるということはあるのか?とかも考えながら読んでみた。タイトルだけを見て、そりゃそうに決まっているじゃないとか思っていたが、本書を読み進むと、自分の考えが浅いところにあったのがわかった。
この本は前述のchatGPTの話と被るところがある。見た目の情報や潜在的な意識が脳にそれはまずいと認識させてしまったり、美味しいものも美味しくないと判断させてしまえるという点だ。
著者は「おいしさを科学的に検証できる」はずと考えている。「どうせ食事をするならおいしいものを食べたい。しかしどういうものが<おいしい>のだろう?」と思う。そして<おいしさ>というものは、実は生理的、文化的な多くのファクターによる複雑な組み合わせによる現象だと捉えている。
本書では様々なレベルの考察によって、<おいしさ>の正体を追求ししていく。さらに、現代人にとってもっとも重要だという「情報のおいしさ」の構造とその行き過ぎを探っていく。
本編への入り口には「情報は最高の調味料」というタイトルがつけられている。そこでは「清潔らしさ」「清潔と清潔感のずれ」が取り上げられている。
その中に、アメリカに留学した学生がシェアハウスで遭遇した、キッチンの沸かした鍋で下着を洗う女子学生の話がある。下着を煮た鍋で味噌汁が作れるものだろうか?という食品衛生的には問題ないが、洗い物と食べ物を隔離したい生活規範が侵された「不潔感」の話だ。また、未使用の検尿コップでビールを飲めるかという話もある。飲用にこのコップが使われることを「清潔さがない」というだけで脳が拒否し、科学的根拠もなくわれわれは嫌う。
学者の研究なので腰が引けたのだが、取り上げる例は実にわかりやすく、こんなふうに自分のこととして「うーんどっちだろう」と判断する話が多く、意外と引き込まれていく。
「食文化のおいしさ」では人間が食生活を営む集団の中で独自の味付けが生まれ継承されるため、幼い頃から食べ慣れた味わいは、安心感を与え、おいしさを感じさせる、という。安心感はおいしいのである。逆に食べなれない味や食材には人はしばしば違和感を覚える。人は食べ物を目の前にして、自分が慣れ親しんだその味付けを想像するからだ。文化のおいしさである。
また、著者は食品研究の最大の謎として「飽きる」ということを取り上げている。ネズミには飽きるという感覚がない。いつまでも同じ餌を食べ続けるのはなぜか。人間には同じものばかり食べるリスクを回避するために前日や前々日の料理を覚えている部位が脳のどこかにあるかもしれない。
当たり前のことを言っているようだが、なぜ?って深掘りし、科学的に教えてくれる本には出会ったことがない。
本書は2003年に出版され、2016年には第3刷となっている。食に関わるものが読むべき1冊だと示している。出版時には、3Dプリンターによる本物そっくりの「人工肉」が出現するとは著者もまだ思っていなかったと思う。ますます、おいしさを科学的に数値化する必要が出てきたのではないだろうか。
出版にたずさわることから社会に出て、映像も含めた電子メディア、ネットメディア、そして人が集まる店舗もそのひとつとして、さまざまなメディアに関わって来ました。しかしメディアというものは良いものも悪いものも伝達していきます。 そして「食」は最終系で人の原点のメディアだと思います。人と人の間に歴史を伝え、国境や民族を超えた部分を違いも含めて理解することができるのが「食」というメディアです。それは伝達手段であり、情報そのものです。誰かだけの利益のためにあってはいけない、誰もが正しく受け取り理解できなければならないものです。この壮大で終わることのない「食」という情報を実体験を通してどうやって伝えて行くか。新しい視点を持ったクリエーターたちを中心に丁寧にカタチにして行きたいと思います。