2020.10.20

「写し」から生まれる個性

写しの皿

これは2008年から2013年まで ニュー・サイエンス社発行「季刊・四季の味」に『銭屋の勝手口』として連載された銭屋主人・髙木慎一朗による随筆の一編です。連載では料理人である筆者の目と体験を通して日本料理の世界と人、美味しいものなどについてが綴られています。今回はNo.53 2008年6月17日発売号に掲載されたものを出版社の許諾を得て掲載いたしました。 


先日、久しぶりに食器店「大文字」の内木さんがカウンターにいらっしゃいました。相変わらずお元気そうで、かつ忙しいご様子に、何だか嬉しい気がしました。

内木さんは、ウチの先代と一歳違いの、まさに同世代。商売のジャンルこそ違いますが、どちらも創業者として事業を始めた、いわば同志とも言える大親友でした。

仕事を通じて知り合った間柄ですが、聞くところによると、途中から商売上の付き合いよりプライベートの方がはるかに多くなっていたそうです。日本各地のみならず、香港や台湾まで一緒に出掛けて食べ歩いていたとか。私に言わせれば、あの細いお姿の内木さんが先代と一緒に食べ歩いていたと聞いただけで驚きです。

先代は、ひとたび食べ歩きに出たら、昼食を二回、夕食を二回なんて当たり前。そのあとでまた軽く寿司でも食べるなんてことも日常茶飯事で、当時十代の食べ盛りの私でも、希代のグルマンに付いていくのに精一杯でした。食事の途中に「もう食べられない」などと言おうものなら、「なんだお前は!二度と連れてこないからな!」と一喝されたものです。

大文字さんのパーティが、坂井さんの『ラ・ロシェル』で開催されたときのこと。内木さんもご存知ない初公開のネタがありますので、ちょっと記しておきたいと思います。

内木さんからご案内をいただいた先代は、喜んで東京に向かったのですが、諸事情により開宴ギリギリの会場入りとなりました。私は大学生で東京に住んでいましたから、青山の近くで落ち合ったのですが、開宴時刻が迫っていたので、話をする間もなく会場へと急ぎました。

宴が始まり、先代や坂井さんのスピーチなどが終わった頃になって、ようやく私は席に着いて先代とゆっくり話せる状況になりました。

ワインを飲みながら開口一番、「おい、最近何か旨いもの、あったか?」。お金を持ってない学生によくまあ聞いてくるもんだとは思いましたが、男の意地もあって何か言わねば、と考え、即座に閃いたものが一品。

「そういえば、つい三日前に叔父貴に連れて行ってもらった寿司屋で、初めて秋刀魚の握りを食べたなぁ。凄く美味しかったよ」

「秋刀魚の握り!? そりゃ食べたことないな」

ご存知のように、金沢の近海で秋刀魚は獲れません。ましてや当時の金沢では、秋刀魚を刺身や寿司で食べることはありませんでした。加えて先代は大の青魚好き。聞いてしまったら我慢ができなくなったようで、「おい、いまから行くぞ!案内しろ」と席を立ちました。

タテにもヨコにも、人一倍目立つ大柄な二人が、パーティをこっそり抜け出してタクシーに乗り、寿司屋に着くやいなや、

「秋刀魚だけでいいから、スグに握ってくれ」

いま思えば乱暴な注文ですが、ご主人は嫌な顔をせずにさっと握ってくれました。当たり前ながら、寿司は握りたてが一番旨いのです。

先代はキレイに仕込まれた握りを即座にパクッと一口で食べて、冷酒を一口飲んで一言。

「あと何匹あるんだい?」

「残り三匹です」と寿司屋のオヤジさん。

「よし、全部握ってくれ」

私はしてやったりの気分でした。初めて食べる秋刀魚の握りにピンと来なければ、きっと他のネタを頼んだに違いありません。つまり気に入ったということなのです。

結局、秋刀魚の握りと、シメに梅紫蘇巻きだけ食べて、何とも満足気な表情で内木さんのパーティに戻りました。

宴では、メインディッシュの大きなローストビーフがちょうど出てくるところでした。

美味しそうなビーフの塊を小気味よく切り出すギャルソンに向かって、先代は「三枚切ってくれ」と当たり前のように一言。相変わらずよく食べるなあ、と私は密かに思いながら、「じゃあ、私は二枚お願いします」。いずれにせよ人並みには収まらない父と子でした。

デザートまで一通り食べて、内木ご夫妻や知人達とゆっくりと深夜まで歓談した後、ホテルへと帰りました。私はてっきりホテルに泊めてもらえると思っていたのですが、「気をつけて帰れよ。寄り道するな。朝食は七時半に食べるから遅れるな」と言われ、終電に遅れないように必死で走ったことをいまだに忘れません。

翌朝は五時過ぎに起きて、何とか七時過ぎに先代の部屋に入ると、机の上になじみのある形の重箱とお椀がありました。「何、コレ?」と尋ねたところ、「あんまり旨くなかったな」。

どうやら深夜にルームサービスで鰻重を頼んだようです。この食欲に呆れ返った私は、もうそれ以上何も聞きませんでした。

これが先代と私が二人で過ごした最後の時間となり、内木さんと先代とは最初で最後の思い出となりました。

さて、話を戻して内木さんのカウンターでのお食事です。

万寿貝と片葉の先附から、油目の椀盛と順に召し上がっていただき、内木さんお気に入りの純米酒「黒帯 山廃純米」の常温のお銚子も二本目に差し掛かった頃でした。

造里の器を俎板の上に出したところ、「懐かしいねえ、コレ」と一言。

銭屋のカウンターは料理人の手元の俎板が丸見えのレイアウトになっていますので、次に準備する器もすぐに分かります。

ご用意した「めじまぐろのタタキ」は、先代の頃から初夏の銭屋の名物です。秋刀魚同様に金沢近海では鰹も獲れませんので、初鰹の時期には、能登沖で穫れる「めじまぐろ」をタタキにして、ポンスで召し上がっていただきます。

その日は、この名物のタタキを志野舟形向附に盛り込みました。この器は、先代が古美術商から手に入れたものを、大文字さんにお願いして誂えてもらった「写し」なのです。

茶道をほとんど嗜みませんでしたが、先代は古美術の類が大好きでした。しょっちゅう馴染みの古美術商(我々は道具屋さんと呼んでいます)に遊びに行って、気に入った道具を見つけては、女将に内緒で購入していたようです。

道具屋さんから届いた食器類は、五客かせいぜい十客揃い。これでは、銭屋の席数にはちょっと足りません。また古いだけに慎重に取り扱わなければならないので、普段使いには難しい部分が出てきます。そこで大文字さんのような食器屋さんに、道具屋さんで購入した食器、つまり「本歌」を見せて、その「写し」を誂えてもらって、数が足りない分を賄うのです。

料理も同じですが、職人の仕事はすべて所作や仕上がりを真似することから始まります。それぞれの個性は、克明な模写というか、きちんとした写しが出来るようになってきたら、勝手に出てくるものではないでしょうか。

日本料理に現れる個性なんてものは、本来は伝統の上にこそ、ようやく生まれるものだと私は考えています。どうしてこのような形になったのか、その歴史と論理を理解せずして「写し」は出来ません。過程を知った上で、そこから独自の発想をし続け、意図的ではなく結果として現れるものこそが個性ではないか、と思うのです。単に奇をてらうだけのような発想は、実は本来の個性とは最も遠いものなのでしょう。

先代が他界して十七年が過ぎようとしています。先代を知っている銭屋のスタッフは、身内以外ではたったの二名になりました。

私が料理の世界に入ったのは、すでに先代が亡くなった後でしたので、先代から料理の手ほどきを受けたことは一度もありません。先代が存命中は、正直言って料理人になりたいなんてまったく考えてもいませんでした。

いまになって、というか、いまようやく、先代と内木さんの残してくれた「写し」を手に取ってみては、職人の仕事について思いを巡らせるようになってきました。そして、少しずつ気が付いてきたことがあります。私の料理人生のメルクマールというべきは、日々のお客様の志向と、たとえば「写し」を通して理解できるような伝統かもしれないということです。

我々は職人ですから、仕事は常にお客様に向いていなければなりません。また日本料理のみならず、現代のあらゆる料理文化は、先人たちの長年の努力の礎があってこそ、今日まで継承されたのですから、否定しては何も始まりません。でも、それは前時代の仕事をそのまま続けることと同じではないのです。いわば進化し続けなければならないということです。

こう考えるようになったのは、数々の「写し」に込められた、巳年らしい先代の睨みが効いてきたからでしょうか。成田屋ならぬ銭屋の睨みこそ、密かなる伝統だったかもしれませんね。

「何を言ってんだ。俺が言いたかったのはこんなことじゃない!」と、先代は言うかもしれませんが、私達息子にしてみれば、「悔しけりゃ化けてでも出てきて睨んでみやがれ」ということですな。

石川県金沢市「日本料理 銭屋」の二代目主人。
株式会社OPENSAUCE取締役