2019.11.06

天照大神のメニュー 大嘗祭・みけたてまつるもの

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稲穂

令和元年、11月14日に「大嘗祭(おおにえのまつり、だいじょうさい)」が行われる。これは 天皇が即位して一世一代しか行われない大祭なのである。

大嘗祭とはなんだろう?

大嘗祭とは、簡単にいってしまうと 天皇即位後初めて行われる特別な「新嘗祭(にいなめさい)」のことである。

毎年行われる新嘗祭は、とれたばかりの新穀を捧げて五穀豊穣を感謝し、国家国民の安寧を祈願するという 天皇自らが行う宮中祭祀のこと。この時はじめて、 天皇が神とともに新穀を召し上がることになる。

とはいえ、現代はこの新嘗祭より先に「新米」が手に入り、庶民の口に入る時代。
それでも新嘗祭の伝統は粛々と守られ続けている。

薬師寺を訪れた修学旅行生たちを爆笑の渦に叩き込む「薬師寺ジョーク」を覚えているだろうか?
「薬師寺にはお墓がありません。 そう、ハカナイ寺なんです」
などの数々のジョークの産みの親は高田好胤という人物。薬師寺再生という一大事業を牽引したこの法相宗管長も、この新嘗祭が終わるまで決して新米を口にしなかったという。

大嘗祭は、 天皇だけではなく、もともと民にとっても特別な意味をもつ祭であった。令和の大嘗祭は一部をプレハブにしたりと費用削減をかなり行なっている(それでも物価上昇で平成の大嘗祭より工費が高くなっている)のだが、問題があるといえばあるし、ないといえばない。

それは「やれるだけマシ」だからだ。

室町時代の応仁の乱以降、皇室や公家たちの生活は斜陽の一途を辿り、約220年間、江戸時代に至まで中絶してしまう。江戸時代になるとこの途絶している間に歴史がわからなくなり、学者たちの頭脳を結集して、史料に基づいて復元しようという試みがなされるが、流石に100%の復元はできなかった。物事とは、途絶すると完全復活というのはできなくなるものなのだ。

室町時代、費用が作れずに即位して21年間も大嘗祭が行うことができなかった後柏原天皇(在位:1500~1526)なども、略式とはいえ大嘗祭ができたのだからマシな方だったといえるだろう。その後に即位した後奈良天皇も略式の大嘗祭に即位後10年もかかってしまっている。

そうまでしても行うべき「大嘗祭」とはなんなのだろうか?

神さまの捧げ物を選ぶ

毎年の新嘗祭は宮中の神嘉殿(しんかでん)で行われるが、御一代一度の大嘗祭は、「大嘗宮」という宮をこのために造営する。

左右対称に配置された悠紀殿(ゆきでん)、主基殿(すきでん)という建物は、この大嘗祭のための祭祀の宮である。かつては悠紀国、主基国の人々が大嘗祭の7日前から両殿を作り始め、5日間で完成させるというものだった。
とにもかくにも、この大嘗祭は新穀選びをしなければ始まらない。

天照大神へ捧げる食べ物・御饌(ミケ)のうち、特に重要なのは稲である。この稲を収穫する場所を斎田といい、この場所を選ぶのはなんと占いなのである。

ウミガメの甲羅を将棋の駒型にしたものを火にあぶり、甲羅の割れ方で選ぶ亀卜(きぼく)という方法を現代も踏襲している。

歴史的に必ずしもそうというわけではないが、概ね、悠紀国は東、主基国は西から選ばれる原則である。今では食卓のお馴染みの米「あきたこまち」が一躍有名になったきっかけも、 平成の大嘗祭の悠紀国の米として選ばれたからだった。ちなみに今回の令和の大嘗祭の悠紀国は栃木県、主基国には京都府が選ばれている。

大嘗祭の両殿で行われるものとは

大嘗祭当日の夜、 天皇は廻立殿(かいりゅうでん)という控室で潔斎(湯浴み)を行い、白絹でできた祭服に着替えて悠紀殿に向かうことになる。

午後9時頃、膳屋(かしわや)という料理をする施設(今回の大嘗祭はここがプレハブになるのだが)から天照大神への神饌が悠紀殿に運ばれる。 悠紀殿の 天皇は御手水でさらに浄めを行うと、柏の葉を編んでできた「窪手(くぼて)」という箱状の容器に入った神饌が敷物に並べられる。

天皇自ら、神饌を柏の葉でできた枚手(ひらで)という平皿に、竹を曲げて作った大きなピンセットのような箸で盛り付けていく。この盛り付けた皿を女官に渡し、女官はこれを供進していく。

延々、これが1時間以上にわたって粛々と続き、そして最後に 天皇がこれら神と共に召し上がるのである。

そしてまた 天皇は廻立殿に戻って物忌・潔斎し、白絹の衣も改めて午前3時頃に今度は主基殿で全く同じ作法で粛々と儀式を行う。

天照大神のメニュー

天照大神

神饌、つまり天照大神のメニューはどのようなものだろう?

米と粟の御飯(おもの)・御粥・鮑や鯛など海産物などの「なまもの」や干した魚などの「からもの」・果子(くだもの)、他には和布汁漬・鮑汁漬・和布羹・鮑羹などの汁物、白酒・黒酒・直会酒などとされている。

以前、銭屋の髙木さんと対談した時にも話に上がったが、天照大神は特にアワビを好む。(※詳しい話はリンクの対談を参照)

日本の神様への捧げ物というと何を思い浮かべるだろうか。
神棚のある家は生米だろうか。こうした神様の食事、神饌というと生米のような素材(これを生饌という)というイメージがあるがそれは明治以降の主流であって、それよりも古い時代には調理された「熟饌(じゅくせん)」という神饌こそが御饌の本来の姿であった。
その遺風が大嘗祭で供進される御饌にもよくあらわれている。

ちなみにこの中で耳慣れないのが白酒・黒酒だろう。白酒は「しろき」とよみ、黒酒は「くろき」とよむ。二つともこの悠紀国、主基国の新穀で作られているのだが『延喜式』によるとクサキという植物の根を灰にして混ぜたものが「黒酒」らしい。白酒が白いのは現代の清酒のような透明な酒とは違い、酒粕が多く入ったもっとドロついたものだからである。

ちなみに中世の頃には、灰の代わりに擂った黒ゴマを混ぜて黒くしていた。

なぜ白と黒なのか、確かな理由はわからない。白と黒とで陰陽のバランスをととのえるのだ、という考えもあれば、古代米を使っていた余風が黒酒のもとだろうという考えもある。

東山御文庫に蔵されている江戸時代・徳川吉宗の享保の頃に即位した桜町天皇の大嘗祭の折の祝詞(のりと)の文からも、五穀豊穣を天神地祇に祈り、「もろもろの民をすくはむ(救はむ)」という願いが書かれている。

五穀豊穣というのは、お気楽なめでたい縁起のいいだけの文言ではない。日本に災害の多いのは今も昔もそれは同じであった。むしろ、往時には自然の前に人はより一層無力であった。

五穀豊穣というのは、国土に何も起こらない、という条件の上にしか成り立たない。五穀豊穣の裏の意味は、国土に災いがない、ということなのである。

そうした願いを 天皇が国民のために奉仕するという御代一回の祭祀が大嘗祭なのである。

『古事記』のできたとされる天武・持統朝の7世紀以来の「食」を中心とした連綿と続く伝統を、私たちはもう間も無く目の当たりにするのだ。

私は、だいたい数日に一食しか食べない。一ヶ月に一食のときもある。宗教上の理由でも、ストイックなポリシーでもなく、ただなんとなく食べたい時に食べるとこのサイクルになってしまう。だから私は食に対して真剣である。久々の一食を「適当」に食べてなるものか。久々の食事が卵かけ御飯だとしよう。先に白身と醤油とを御飯にしっかりまぜて、御飯をふかふかにしてから器によそって、上に黄身を落とす。このときに醤油がちょっと強いかなというぐらいの加減がちょうどいい。醤油の味わい、黄身のコク、御飯の甘さ。複雑にして鮮烈な味わいの粒子群は、腹を空かせた者の頭上に降りそそがれる神からの贈物である。自然と口から出るのは、「ありがたい」の一言。

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