これは2008年から2013年まで ニュー・サイエンス社発行「季刊・四季の味」に『銭屋の勝手口』として連載された銭屋主人・髙木慎一朗による随筆の一編です。連載では料理人である筆者の目と体験を通して日本料理の世界と人、美味しいものなどについてが綴られています。今回はNo.55 2009年3月7日発売号に掲載されたものを出版社の許諾を得て掲載いたしました。
二月に入り初釜の仕事もひと段落して、ようやく落ち着いたころともなると、ついどこかに出かけたくなるものです。ところが料理屋にとっては、のんびりとリゾート、なんて夢のまた夢です。そうそう何日も店を閉めるわけにはいきませんからね。
銭屋では秋口から冬に向けて徐々に忙しくなってきますが、特に十一月上旬のカニの解禁日からは、何か急にスイッチが入ったように途端に忙しくなってきます。そのまま、暮れのおせち料理の仕込みにむけて、とどまることなくどんどん忙しくなっていくものですから、その時期は時間があっという間に過ぎていきます。
ちょうど一息入れたくなったこの時期に、たまたまNYから友人であるシェフ三人が石川県にやってきました。石川の料理や食材、伝統工芸をNYでPRしてもらうために石川県が招聘したのです。ちょうど良い機会なので、能登に連れて行ってみることにしました。
私にとって能登は、まさに食材の宝庫といえます。一般に能登といえば海の幸を真っ先に思い浮かべることが多いですが、実は山の幸が大変豊富な場所でもあるのです。
春の山菜や秋のコケ(※)やキノコ類の豊富さは大変なもので、特に松茸などは金沢の市場では丹波など他の産地のものよりもはるかに高い評価を得ています。自然薯や野蕗、たらの芽などが能登から届くと何とも嬉しい気分になります。
私が能登に愛着を持っているもうひとつの理由は、実は、私の母が能登町の真脇という村の出身だからです。海と山に挟まれた、いわば小さな漁村の仕立屋の娘として育った母は、幼いころから海や山の幸を極めて新鮮な状態で食していました。もしかしたら、私の味覚のルーツがこのあたりにあるかもしれませんね。
二月某日、能登空港で三人のシェフを迎えました。彼らは前日の夕方NYから東京に到着したばかりですが、元気そうです。この様子ならきっと食べまくってくれることでしょう。
まずは三人を連れて輪島に向かいました。この日の夕食は料亭「志津万」です。(現在は閉店中)こちらのご主人の中村さんは、ウチの先代のもとで銭屋の二代目料理長を務めていた方です。私にとっては料理業界の大先輩にあたりますが、私や弟が幼いころから可愛がってもらっていたため、ちょっと年の離れた兄貴分といった存在なのです。もちろん歴代の料理人達にしてみれば大変おっかない、でも親分肌の先輩で、OB会である銭屋会の常に中心メンバーでもあります。
前もって中村さんにはNYから来るシェフを連れて行く旨を伝えておいたので、どんな料理が出るのか私も楽しみでなりませんでした。
輪島の地酒「能登誉」を燗してもらって乾杯。カウンター越しに中村さんの包丁さばきを見ながらの食事は、外国人ならずとも心踊ります。鱈の白子の田楽に始まり、鯨の赤身と畝(※)の刺身や鱈の幽庵焼きなど、料理のほとんどが彼らにとって初めてのものばかりでしたが、ずいぶんと喜んで召し上がってくれました。
特に鯨に関しては「アメリカでは絶対食べられないね」と、しばらく興味深く眺めていましたが、食べ始めたら「これは旨い」と、あっという間に平らげていました。
翌日は朝市をぶらっと歩いてから、シェフたちに輪島塗の工程を見せたくて、大向高洲堂(※)さんに伺いました。ちなみに大向社長は、四季の味の前号において地元食材をふんだんに使った小皿料理と見事な俳句を披露されています。
大向高洲堂さんでは、一個の木の塊が一個のお椀になるまでの過程をじっくりと説明をしていただき工程も拝見させていただきました。
シェフたちはようやく理解できた、輪島塗に費やされる手間と時間、技術に心から感服している様子でした。
それまでは「何で輪島塗はこんなに高価なんだ?」「こんな値段の食器をよく使えるもんだ」などと言っていたのに。
見学コースの最後に、大向社長のご好意で蒔絵の体験をさせていただきました。私ですら予想外の展開に戸惑いましたが、三人は喜んで筆をとって箸に思い思いの絵を描いていました。
実は私にとっても初めての経験でした。実際に筆をとって線を引こうとしましたが、どうもうまくいきません。何度やってもイメージ通りになりません。当たり前のことです。なにせ私の思い描くイメージとは、さっきまで見ていた人間国宝の作品なのですから。
もちろん、素人がいきなり上手に描けるわけがありませんから当然のことなのですが、「たった一本の線をひくのがこんなにも難しいとは」と、改めて職人の技術に脱帽した瞬間でした。完成品はまだ見ていませんが、正直なところ、その到着が待ち遠しいのと仕上がった自作を見るのが恥ずかしい、二つの感情が入り混じった、ちょっと複雑な気分です。
大向高洲堂でゆっくりと輪島塗を楽しんだ後は、同じく輪島市内の温泉旅館「能登の庄」に向かいました。こちらの料理長である林さんもまた銭屋のOB、大先輩です。さらに「能登の庄」の御主人の長男がウチで板前修業しているのです。そんな深いご縁もあって、輪島に泊まる際はいつもこちらにお世話になっています。
宿に到着して浴衣に着替えて、とりあえずはお風呂に向かいました。断崖越しに日本海を眺めながら、ゆっくりとお湯に浸かります。沖合いで漁をしている漁船や水平線を眺めながら温泉につかるのは、まさに「たまらぬものなり」です。この温泉はアルカリ度が高いために、肌がツルツルになるということでも女性の人気を集めています。私にはあまり関係ない、か。
その夜は囲炉裏を設えた部屋で夕食となりました。この時期の輪島は、冬と春の端境期の食材が楽しみでもあります。つまりは、一部ではありますが、冬のものと春のものの両方が献立に乗るということなのです。輪島独特の海藻類とずわいかに、一見すると不思議な組み合わせではありますが、正真正銘、地元で取れた食材なのですから間違いありません。
その海藻は、同じ石川県に住む私達ですら名前も知らないものがたくさんありました。それらを酒粕をつかったダシでさっとしゃぶしゃぶにしていただいたのですが、酒粕の甘みとほんのり感じる海藻類の苦味が何とも心地よい相性で、とても美味しかったのです。
料理長の林さんの心尽くしの献立は、シェフ達の心にも十分に響いたようで、食事を終えた後も、食材や調理方法などについて私に詳しく尋ねてきました。
能登三日目の朝、能登の庄を午前六時に出発して、宇志津へ向かいました。七時過ぎから始まる宇出津港での競りを見学するためです。我々が能登入りした数日前から海は時化ていて、輪島などでは漁船が一切漁に出られない日が続いていました。しかし、宇出津で競りが立つとの情報が入り、急遽早朝に輪島を離れることにしたのです。競り場の見学は、シェフたちの熱烈な希望によるものでもありましたので、強行スケジュールにもイヤな顔はしませんでした。
宇出津港には、全体の水揚量こそ少ないものの、アンコウやカワハギ、スルメイカなどが大量に並んでいました。そして競り人の独特の言い回しが、シェフたちの興味をそそります。
「髙木さん、あなたはあの競り人が言っている言葉を理解できるのか?」と尋ねてきたので
「全く理解できないよ。というよりも、理解できなくしているんじゃないかな?」
と答えました。私自身も推測で答えたのですが、彼らも何となく理解したようで、
「そうだね。価格を決めるプロセスは、誰にでも簡単に知られないほうが良いかもね」
私自身も、理由も無く、ただ何となくそんな気になってしまっていました。
競り人たちが競っている場所に一緒にいながらも、自分はよそ者という、いわば疎外感を感じたことは、日本人の私のみならず外国人のシェフ達も同じようでした。
しかし、それは決してネガティブなことではなくて、別のプロフェッショナルな世界があったということを認識しただけなのでしょう。競り人達を見るシェフ三人のまなざしは、別のプロに対する、敬意をもったものであることは明白でした。
そして、ここにも日本の食文化を支えるプロ集団がいたということを、誇りを持って紹介できて幸運でした。日本料理の歴史は、単に料理人だけではなく様々なプロフェッショナルの存在抜きでは語れない、ということをほんの少しでも彼らに理解して欲しいと思っています。それが日本の食文化の底力でもあるのですから。
NYシェフ三人は競りを見た後に、宇出津の数馬酒造で製造工程を見学し、ゆっくりと、そしてたっぷりと試飲させていただき、気分上々で金沢に向かいました。
この三日間で色々な食材や料理を彼らに見せることができてよかったと思うと同時に、料理人以外の食文化を支えるプロフェッショナルの存在を実感してもらえたことが、私は嬉しくてなりませんでした。このように海外の方々に日本文化のリアルな全景を見せていくことが、今後は一層必要になってくるのではないでしょうか?様々なプロフェッショナルの仕事の歴史を絶やさないためにも。
※コケ:石川弁で、きのこを指す総称。
※畝:鯨の下顎から腹にかけてある縦筋の部分。ベーコン等に用いられることが多い。
※志津万、大向高洲堂:現在は閉店。
石川県金沢市「日本料理 銭屋」の二代目主人。
株式会社OPENSAUCE取締役