2020.07.26

越境した中国チチハルの味。 母子の味が伝えるもの。 前編

金沢から東京・JR御徒町の高架下にある『老酒舗』という店に向かったのは2019年12月も後半に差しかかった頃。日本では馴染みが薄かった中国・東北地方の料理店を先駆的に始めた梁宝璋(りょうほうしょう)さんに会うためだった。

梁さんが「母が作ってくれた中国東北料理を伝えたい」と答えた記事を目にしたことがきっかけになった。そしてその言葉が、私たちOPENSAUCEの”あらゆる食の遺伝子を未来に伝える”というミッションの出発点とリンクした。

OPENSAUCEはレシピのオープンプラットフォーム。音楽が楽譜となって受け継がれていくように、世界中の幸せな食の記憶、情報、体験を共通のレシピとして未来につないでいく活動。おいしくて健康的な食のよろこびを、世界中にシェアして行くプロジェクトだ。

『老酒舗』入り口

中国の酒、白酒(バイジュウ)の甕が並ぶ『老酒舗』の店先からは、独特な香辛料と醤油の香りが漂っている。入口看板の上に並ぶ、大きく中国語のみで書かれたお酒と食べものの種類が目をひく。

中国の居酒屋感あふれる入り口ながら、日本焼酎、日本清酒という文字も並び、自由に中国料理で楽しんで、という空気が出ている。

今回、取材の仲介をしてもらった株式会社キッチハイクの山本雅也共同代表にもメンバーに加わってもらった。キッチハイクは、食と文化を旅する体験を提供するEC・イベント事業を運営しているが、過去に登録者同士の交流イベントの場として利用していたのが偶然にも『老酒舗』だった。

キッチハイクの山本さんと梁さん

事業をスタートさせる以前、47カ国もの食卓で住人と一緒にご飯を食べ、そこに在る生活と文化を見てきた山本さん。食べるという視点で梁氏の言葉を引き出してもらおうと参加をお願いした。

中国から一家での移住。

店に入ると、小林淳一さんが待っていた。編集者でもある小林さんは、取材で訪れた『味坊』で厨房に立つ梁さんに出会い、一緒に仕事をするようになった人だ。

味坊グループの中で企画やブランディング面を受け持つ小林淳一さん
撮影:加藤 有紀

小林さんは、店にいた梁さんのお母さんとお父さんを紹介してくれた。息子を訪ねてきたゲストを穏やかな微笑みで迎える母親と、ややシャイな父親。お二人とも日本語は話されなかった。

二人とも中国から日本にやってきた。

約束の時間に少し遅れて現れた梁宝璋さんは、日本に来て家族の生活を支えてきた、大きな体とお母さん譲りの優しい笑顔の持ち主だった。

梁さんは足立区に完成したばかりのセントラルキッチンに戻らなければならず、私たちも同行して話を伺うことにした。

倉庫のような建物を改装した新しいセントラルキッチンに着くと、お祝いを兼ねて見学に来ていた若い人たちが盛り上がり始めていた。カラオケのセットもあり、BGM代わりに中国の歌謡曲らしきものを流している。梁さんがみんなに声をかけ、そこにいた人たちが挨拶に近寄る。まるで中国のどこかで、ファミリーの集まりに呼ばれたようだ。

「東北地方の黒龍江省チチハル市に生まれて、日本に来るまでいました。ずっとそこで育ちました」

私たちと梁さんとお母さん、そして小林さん。ゆくゆくは食事も提供したいというホールの仮テーブルを囲んで話が始まる。

「私が生まれたのは1963年です。そうですね、ちょうど文化大革命の始まる3年前くらいです。普通に育ち、日本に来るまでは絵を描く仕事をしていました。料理とは無縁でしたね(笑)」

「母は中国の残留孤児だったので、1994年に日本に帰ってきました」

梁さんは自然の成り行きというように、笑顔のまま話を続ける。32歳だった梁さんと家族が東京にやって来たのは翌年1995年。阪神大震災の年だ。

故郷を離れるには、私たちにはわからない梁さん一家の判断があったのだろう。現在の在日中国人には中国東北出身者が多い。中国残留孤児の帰国とともに、その子どもたちも日本に住み始めた。さらにその人たちを頼って来日する親族、知人が増えたことに起因する。今や都市圏人口1000万人の、ハルピン市につぐ大都市になったチチハル市とはいえ、当時の東北地方では賃金格差が大きかったという推測はできた。

国の政治や経済が変わることで食生活に大きな影響があったのは確かだ。しかし、時代の流れも受け入れ慎ましく暮らしていた家族があり、その母が子に繋いだ『食の遺伝子』はその生活のなかで生まれ育ったもの。ここ東京でその遺伝子がどう伝わっているのか?それを少しでも知ることが出来ればと考えた。

現在、日本の法律の上では「中国残留邦人」という言い方が使われる。残留孤児という文字は消え始めている。「戦後、中国・東北地方(旧満州国)へのソ連軍進攻で、肉親と離別するなどして中国への残留を余儀なくされた。厚生労働省の調査では、日中国交が正常化した1972年から2011年12月末までに6669人が日本に永住帰国した(内訳は中国人養子となった「残留孤児」2551人、中国人の妻となった「残留婦人」4118人)。その家族を含めると6665世帯、20,833人であった。

初めは日本の中華料理から始まった。

足立区に住み始めた梁さんは、様々な仕事について家族の生活を支えた。そして2年後、飲食店を始めることになる。

ラーメン店時代の梁さん

「1997年にこの足立区竹ノ塚のあたりで、中華店を始めました。まあ、いわゆる日本のラーメン屋さんです」

生活のために店を興したが、梁さんは、スープを鶏と豚のダシで時間をかけ丁寧にとった。

「豚のバラ先軟骨を使ってましたね。めちゃくちゃ美味しいから。あの頃、20何年前でしょ。1キロ、100円か150円、安かったですね。今は800円くらい。すごく高くなりました。でも、今もその方法は変えていません」

しかし梁さんは、当時の店が普通の中華料理店であったことを強調した。麻婆豆腐などの出前が順調にいき、生活は安定した。しかし、自分で出している料理が、自分が覚えている中国料理ではないことに迷い始める。

梁さんには長く”違和感”があった。

「日本に来た25年前、日本の中華料理を食べると、美味しいけど生まれ育った中国とは違うなと感じていました」

どこでも同じ。そう思ったのだ。

「中国の料理が、皆さん思っているような青椒肉絲とか麻婆豆腐とかエビチリとか酢豚とか、野菜炒めとか、餃子、チャーハン、ラーメンだけ。それはちょっと寂しい」

本当の中国にはいろいろな味、美味しいものがたくさんある。日本スタイルでなくても日本の人にわかってもらえる味があるはず。そう梁さんは考え始めた。

母が作ってくれた、東北地方のあの味を東京で伝えたい。

「3年続けた日本式のラーメン屋さんをやめて、2000年に神田のJR高架下に『味坊』をつくりました。それがほんとの第1号店ですね」

放送用語委員会は、1972年の日中国交正常化の翌年1973年に、テレビ、ラジオにおいて、固定化された名称である「中華鍋」「「中華そば」「中華饅頭」などを除き、原則として”中国料理”を使うことを決定している。

”中華料理”は日本人に合わせてローカライズされてできた料理。”中国料理”は本場の中国と同じもの、という区別はこの辺りから始まったと思われる。

白菜の漬物の味が
記憶をつなぎ 人をつなぐ。

梁さんはしばしば「間違ってなかった」という言葉を使う。

『味坊』は評判を呼ぶ。情報誌の編集をしていた小林さんがやって来る。そして、あるものを使った料理が小林さんの中で眠っていた遺伝子の記憶を呼び起すことになる。

出会いの味「酸菜」と豚肉の料理

それは『酸菜(サンツァイ)』を使って煮込んだ料理だった。

酸菜は白菜を塩と水だけで漬けて発酵させたものだ。小林さんの母親が作っていた家庭の味でもあった。そしてそれは、中国東北部とロシアの極東にまたがった旧満州に暮らしたことのある祖母の味であることに気づく。

時と場所を超えて、味覚が人をつないだ。

「小林さんとは、20年近くの付き合いになりますね。取材で来て、この白菜の漬物を食べたらやっぱりハマってくれてね」と梁さんはうれしそうに話す。

「料理について考えることも合うので、一緒に中国に旅行に行ったりするようになりました」

小林さんは取材に訪れ、梁さんの東北地方の料理に魅入られる。そして、アドバイスを重ねるうちに一緒に味坊グループを作っていくことになる。

梁さんがメニュー作りと経営を担当し、小林さんは長年の編集者としてのスキルを生かし、ブランディングや企画、外部との連携などを担当。

米袋のメニューデザインへの再利用など、小林さんが参加することで、様々なアイデアが店のあらゆるシーンに盛り込まれた。ナチュラル・ワインの提供という試みによって客層も広がった。

『酸菜』の遺伝子が必要な人を呼び寄せ才能が絡み合うことで、さらに多くの人が馴染みのなかった東北地方の味を知ることになった。

日本語がないメニューが逆に興味を誘う

「私は料理を作る方で、小林さんは料理関係の編集をやっていて、いろいろなアイデアを持っていて、教わることが多いです」

梁さんは小林さんと組み『味坊』に続き20年の間に『味坊鉄鍋荘』『羊香(やんしゃん)味坊』『老酒舗(ろうしゅほ)』『湖南菜 香辣里(しゃんらーりー)』と、味坊グループとして5つの料理店を作り上げた。どれもが大衆的な店である。どこの店も、他では味わえない料理を求めて連日多くの客が集まる。

昔の中国に本当にあったのでは、と思わせる居酒屋に引き寄せられたサラリーマンや美味しいもの好きたち。彼らは、いくつかの時代を超えたレシピで作られた料理に遭遇し、その味に残された遺伝子を持ち帰る。

中国東北地方の味が人々を誘い入れる(2019年12月撮影)

二人は「母の味」「中国東北地方の味」さらに推し進めて「まだ日本には紹介されていない中国の食文化」を伝えることをミッションとしている。

特に「店舗はメディアとして運営しています」と語る編集者でもある小林さんにとって、新しい店づくりは雑誌の創刊、運営は編集作業と同じ行為なのかもしれない。つまり、店とは「伝える」場所なのだ。

梁さんは「間違っていなかった」。

自分が美味しいと思い続けた味を信じたこと。その遺伝子を伝えようとしたこと。母の味、生まれ育った故郷の味は、初めて食べる東京の人たちにもしっかり根付き広がっている。

チチハルという場所。
自由に食べられなかった時代。

「今では、『味坊』というとラム肉が結構、人気あるんだけど、やっぱり発酵した酸菜がみなさんに人気です。小さい頃は毎日食べてたんだよね、冬場だと」

私たちは、昔のこと、子供の頃のことを聞いてみた。

「母親も子供の頃から中国で育ったので、日本語は話しませんし、中国東北地方の料理をずっと食べていました」

「冬が長くて、春までは青い野菜が無い時代。(国が)まだそういう時期だったんです。今は時代が変わったので、ビニールハウスもあるし、飛行機も飛んでるし、一年中なんでも食べれるけど、あの年代、冬場は新鮮な野菜は本当に無かったですね。漬け込んで発酵した野菜か、干した野菜とか。それしか食べれなかったですね」

梁さんの言う、あの時代とは文化大革命の真っ只中に過ごした少年時代のことだ。

梁さんのルーツは中国人の大半を占める漢民族だ。しかし、広い中国はそれぞれの地域でいくつもの民族や文化が混ざり合っている。時代が変わっても、街が都市化されていっても「食」にはそこに生まれた文明の足跡が残り続ける。

「チチハルは、内モンゴルにもすごく近いです。中学生の時、自転車で行ったんですよ。距離だと100キロくらいかな(と、隣のお母さんに確認する梁さん)。朝5時に出て、着いたのは午後1時とか2時くらい。
(内モンゴルへ行ったことのある編集スタッフに)料理も羊ばっかりでしょう?その場で捌いて、すぐ茹でて食べるとかそういう感じですよね。チチハル地区はモンゴル人も住んでました。モンゴル人の居住区でもそういう光景もありましたね」

チチハルとはモンゴル語族の中のダウール語族が話す「辺境」のこと。さらに「自然の牧地」という意味をもつ。私たちは話を聞きながら、梁少年が自転車を漕いでいる当時の景色を想像した。

編集スタッフの「羊は捨てるところは無く、味付けは塩だけで一切無駄にしないで全てを食べ、草を食べるから糞も燃料になる」という内モンゴルで見た印象に、梁さんはそうそうと昔の記憶とともに頷ずき、話を続けた。

「そういう伝統的な食べ方も美味しいんだけれど、うちではニラ花の部分を細かくして塩漬けで発酵した味噌(韮菜花醤)につけて食べたりとかしますね。
あと、餃子は基本的に羊肉使って茹でて食べますよね、モンゴルの人は。どういう料理、どういうメニューでも、羊肉も使ってます。炒めものでも、点心、餃子とか、煮込みとか、焼いたりとか。その点、漢民族は豚肉も使います。」

その話は、モンゴル、朝鮮、中国と多文化が越境しあう東北地方のイメージを、少しずつはっきりさせてゆく。

中国、東北地方の料理は、限られた食材を長持ちさせるための「発酵」と「香辛料」が特徴だ。マイナス20度以下にもなる寒く長い冬、体を温めるといわれる羊肉も多く使われる。そして、こってりとした味付け。羊肉は内モンゴル自治区の東に位置しているということもある。内臓も使う。国境を接するロシア、朝鮮半島が位置的背景にあることも、独特の食文化を形成している。

「そう、漢民族だとやっぱり豚肉ですよね、羊に代わるものとしては。本当に豚肉を羊と同じように使ってます。
(当時の)チチハルでは羊も食べますが、豚のほうが多いですね。今みたいなスーパーとか無いから、商品もそんなにたくさんあるわけじゃない。肉とか魚、あとは調味料くらい。羊は高いので高級でした。それに肉をそんなにしょっちゅう食べることは無かったです。」

梁さんが中国語でお母さんに確認する。

「(母に聞いたら)月に一人200グラムほどだったとか。肉はそんなに食べれないですよね。80年代からですかね、すこし経済力がついてきて、日常的に魚とか肉とか食べることになったのは。その前には、そんなにお肉は食べれなかったですね」

梁さんは「食べれなかった」と繰り返した。もうすぐ2020年を迎えようとしていた私たちは、しばらく意味が飲み込めないまま聞いていた。

1953年以来中国では、米やパンなどの食料品は国家の管理による割当て制だった。人民には食料との交換のために糧票(リャンピャオ)が支給されていたのだった。

1980年代に改革・開放政策が始まり、国内生産増大、生活向上で自由市場での取引が拡大し、1993年には配給制度が廃止された。

「小さい頃は、母親のお母さん、おばあちゃんの家で育ってるので、やっぱり主食としてトウモロコシとか、じゃがいもとか、小学生になる前あたりはそういうものを食べてましたね」と幼少時を振り返る梁さん。

「トウモロコシは粉にして、蒸して、パンみたいなのを食べるとか。ちょっと粗く細かくして、お粥ではないけど、お粥とご飯の間みたいに、トロトロに煮込んで食べていましたね。お米はあるけど、本当に食べれなかったですよね。貴重な食材だったから」

お母さんが補足して梁さんに伝える。

「月に(糧票の割当てが)500グラムとかそんな感じかな。だから、米は美味しいけど食べられなかったね(笑)。あと粟とか。そう、それからコーリャン(高粱)。紫の、ちょっと粟みたいな大きい粒。けっこう硬いやつです。でも、結構これは好きだったんだよな、美味しかったですね。お米と同じように使うんだけれど、なかなか硬いので時間がかかる」

肉を食べることが少なかったとしたら、タンパク質はどうしたのだろう。

「タンパク質はね、大豆を(そのまま)食べるのはなかったですね。やっぱり豆腐とかおからでしょう。まあ、貧しかったですね(笑)。日本の豆腐との違いはちょっと硬い、絹ではなく木綿のような。あとは、干豆腐(ガントウフ)。東北地方の名物。水分を飛ばした豆腐で、それを薄切りしたものを横に並べて鍋に貼って焼くと、縁はカリッと焦げて、中はふわふわで美味しいです」

「炒める料理。そういう調理法は後から来ましたね、東北地方には」

「もともとここは、(1644年から1912年までモンゴル、中国を支配していた)清(大清帝国、1616年に満洲において建国)だったので、少数民族なども多く、漢民族とか移民が混在している土地ですが、煮込み料理が中心でした。大きい鉄の鍋で、その家庭の厨房はその鍋一個だけでおかずを作る、みたいな感じでした。(豚肉は使っていたが)ラードは贅沢なものでしたね」 だから、中国は油が入ってからみんな炒めものになったのかもしれません」

梁さんがつけ加えた。「贅沢といえば、甘いものは普段は食べられませんでした。年越しとか特別な日だけでしたね。お砂糖もぜいたくなものでした。
ああいう時代は政治なので、経済は二の次でした。そのあと、ちょっと良くなるのは78年から79年くらい、70年代末ということです。80年代は経済の時代になりました」

「個人で商売ができて競争が生まれ、どんどん経済も成長し、食べ物もいろいろ、肉とかもたくさん食べれるようになりました。そうですねえ、いっぱい美味しいものが食べられるようになるのは80年代から。食卓が見る見る変わっていくのを感じました」

–後編へつづく−


編集部:子供の頃から梁さんの心と舌に刻まれていた食への思いは、酸菜の味によって人々がつながり、東京で実を結んでいきます。後編では、このインタビュー取材後に味坊のミールキット販売も手がけることになった、キッチハイクの山本雅也共同代表と梁さんの「餃子と文化」へと話は続きます。

後編(7/27公開)にキッチハイク「中国東北餃子文化包」の通信販売のお知らせがあります。

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味坊グループ
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写真:高橋俊充