前回のあらすじ
- 謎の古い醤油が家に伝わっていた
- キッコーマンなのはほぼ確定
- キッコーマンさんにメールで聞いてみてもわからない
そこで三石は、キッコーマンの国際食文化研究センターの山下所長の下を訪れてこの「現存最古の醤油」を寄贈ついでに、これが一体どういうモノであるかという謎を解き明かすことにしたのである。
カエサルのものはカエサルへ、キッコーマンのものはキッコーマンへ。
野田にやってきた
さて、三石は野田を訪れた。
ここがキッコーマン本社のある野田市である。
この地廻り醤油が江戸時代の日本の料理と日本人の味覚を一新させたことは既に銭屋の髙木さんとの対談でも語っているが、やはり江戸川と利根運河が野田の醤油、ひいてはJAPAN醤油文化を拡大させることになるのである。
江戸時代、流通の要は水運なのである。
風景がさすが野田。醤油工場である。
ホームにおりた時点で既に醤油の匂いがする。
大阪の鶴橋駅におりた瞬間にする焼肉の匂いに匹敵するインパクトである。
駅から出ると、だいたいキッコーマンの工場。
さすがは醤油の町、醤油の匂いしかしない。
ちなみにてくてく歩いて発見したことは、時間によって匂いが違うということだ。
帰り道にはソイプロテインのような大豆の匂いが漂っていた。醤油の匂い一辺倒ではないようである。
デトロイトになりかけていた野田
流山街道沿いを歩いているとこんな場所を発見。
和泉屋旅館である。
野田というと醤油だけれども、私にはちょっと違った印象もある。
戦前最大にして最長(217日、218日ともいわれている)の「野田醤油労働争議」の舞台となったのが野田なのである。
1922年(大正11)から始まった労働争議がかなりの規模に広がり、かつ泥沼化して長期化していった事件である。あまりに強力な組合に対して、会社側は無頼漢や労使問題などを暴力的に解決してきた実績のある右翼団体らを金で雇って労働争議を抑え込みにかかろうとする。ならば先制攻撃を加えてやれとばかりに右翼団体が投宿していた旅館を労働争議団が先制攻撃したのである。
その旅館が「和泉屋旅館」と当時の新聞にあるから、まずまずこの和泉屋旅館で間違いないだろう。
ちなみに野田労働争議の顛末だが、ついに行くところまでとことんまで行きついて、葉山に御幸する昭和天皇に直訴するに至り、ついに歩み寄りが始まって一応の和解をみることになる。ある意味において、旧態依然とした体制から真の意味での醤油作りが近代化し、労務環境が改善した近代的企業に脱皮していく瞬間でもあった。
ちなみにここでも渋沢栄一
実はこの労働争議にも2021年の大河ドラマの主人公・渋沢栄一が関係している。
まず第一に、野田との関係でいうと、キッコーマンの前身である野田醤油株式会社の醤油造りの家である高梨家(後に醤油産業で台頭する茂木家はこの高梨家から分かれてできた家)と渋沢栄一との関係は、高梨兵左衛門の次男が渋沢栄一の妻の妹と結婚したことで渋沢と姻戚関係になるのである。
そして、この泥沼労働争議に渋沢栄一も関係していくことになる。
世界的には第一次世界大戦後に労働運動が激化・表面化しつつある時代であった。
1919年には労働条件改善を進めるILO(国際労働期間)が創設される。1日8時間労働を盛り込んだのもILO憲章だ。
日本政府としても今までの国内労働者階級の紛争が政府の武力制圧では限界に達していることがわかりつつあった。ILO創立の流れもあり、政府弾圧以外の解決方法を模索して、労使協調を促す半官半民の「協調会」という組織を結成する。
この副会長が渋沢栄一である(会長は徳川家達)。
まさか縁続きの野田醤油会社の労働争議の調停することになるとは思ってもみなかったはずだ。
渋沢は早期解決を促し、協調会が調停役となってこの争議は一応のところ幕を引く。ちなみにこの時、渋沢栄一は既に88歳。薨去する3年前のことである。
この野田醤油労働争議が1922年(大正11)から1928年(昭和3)の頃だから、今から約100年前の出来事だ。
まだ和泉屋旅館、現存していたのか、という驚きから記念に一枚撮ってみた。
なお全然関係ないが、この協調会が戦後GHQにより解体を命じられ、中央労働学園になったあと、法政大学の社会学部と産業能率大学が誕生する。
労使協調組織が大学になっていくのはなかなか面白い流れである。
さて、駅からキッコーマン国際食文化センターは意外と距離がある。
散歩がてらに散策しながら、次はこんな建物を見つけた。
興風会館と書いてある。
半円のアーチや上の丸窓は、ロマネスク・リヴァイヴァル建築だけど、正面はルネサンス調。
入り口の照明はアールデコデザイン。
昭和初年頃、って感じの美建築じゃないですか。
入り口の看板を見ると催し物は中止されていましたが、色々なカルチャースクール的なものとして機能しているようであった。
次機会があったらぜひ入ってみたい建物である。
ついにキッコーマン国際食文化センターへ
さて、ウロウロしながらやってきました。
この中にあります。
社史編纂グループ長の方と、国際食文化研究センターのセンター長の山下さんのお出迎えを受けて、本題です。
見てください、この醤油。
ドン!
全員沈黙。
コールタールで栓をしたというのは文献にはあるが、現物でコールタールがついたままのモノは初めて見るとのこと。
この紙ラベルも非常に貴重で現物を見たことがない、とのことである。
さあ、この年代は、、、、なんと‼︎
不明。
キッコーマンさんをもってしても不明。
まずこの瓶の形状を見たことがないとのこと。
三人で醤油を目の前にしながら首を傾げた結果、こんな可能性がなきにしもあらずという話になった。
前回の記事に書いた通り、この醤油の下限は1881年にまで遡れる可能性がある。
それ明治一桁にして既にこの野田の醤油は海外進出に乗り出していたのである。
亀甲萬印の醤油はウィーン万国博をはじめとして様々な海外の博覧会に出品して高評価を受けていた。まだ明治一桁の頃の話である。
ラベルや瓶からしても海外輸出用なのは間違いない。時代的にも1881年あたりは妥当なラインかもしれない。
では、なぜウチにそんなものが伝来したのか。
なぜ醤油。なぜ未開封。なぜ輸出用が輸出されないで日本にあるのか。
そういえば、思い出した。私の母方曽祖母は薩摩藩出身の維新で成り上がった人の娘なのだが、銀行マンと結婚したのだ。結婚相手、つまり曽祖父が1890年代から横浜正金銀行(当時)や日本勧業銀行(当時)に勤務していたので、その時に当時のキッコーマンから譲渡されたものなのかもしれない。
でも、なぜ未開封なのか。
輸出用のサンプルとして貰ったとして、未開封のまま保存しておくだろうか。
重いし割れたら一面醤油まみれになるしで、普通は使わないなら捨てる。
ではなぜ捨てず、しかも子孫に残したのか。
たまたま残ってしまったのか?
結局、愛は愛のままで熱を失うのかとばかりに、謎は謎のまま終わっていくのである。
結論
誰もわからない古い醤油で、いつのかわからないけれど、現存最古の醤油である(現在のところ)
後日談 御用蔵醤油の美味しさを伝えたい
そして、飾るなり展示するなり封を開けて調査するなりご自由にお使い下さい、とこの最古の醤油をキッコーマン国際食文化センターへ寄贈してきた。
そのお礼にと、ドクターグリップの4色ボールペンと一本の醤油をもらった。
その醤油がこちら。
醤油の大吟醸です、と頂いたのがこちらである。
醤油の大吟醸…。
大吟醸は米の磨きを上げているという意味だから、大豆を精豆にかけまくったのだろうか。そういう意味ではなくて、こだわりの、手間暇かけた、という意味だろうか。聞きそびれてしまった。
この醤油、宮内省時代から宮内庁に御納している醤油を醸造する御用蔵で、朱塗の木桶で1年間発酵・熟成をかけたという相当なシロモノらしい。
家に帰ってためしに舐めてみた。
これは海鮮モノには最高の相性の醤油。
これは実は夏のことだったので、まだ冷やし中華の時期だった。
そうだ。と思いついてしまった。
そう、冷やし中華のタレではなく、ごま油とこの醤油だけでいけるんではないだろうか。
事実、2021年の夏は御用蔵醤油冷やし中華にハマり続けた。
ローストビーフもこの醤油が合う。
もう大体の食べ物は、この御用蔵醤油を入れれば美味しくなるという濫用が日々行われることとなった。
大事に使ってはいたが、これだけ使っていれば無くなるものである。
こんな美味しい醤油で、御用蔵なんて凄そうなもの、もう手に入らないのだろうな、と思っていた。
そんな時、山下所長の言葉がふと思い出された。
「ネットとかが出てくる前は野田近辺でしか手に入らない醤油でして」
ということは、ネットが出てきた今はネットで買えるということかい?
https://www.kikkoman-shop.com/products/detail/49
はい、買えましたー。
そして、お値段も御手頃。
この記事を読んだ人は、絶対に試しにこの御用蔵醤油を買って、味わってみるといいと思います。
外食する度に思うはずです。
「ああ、あの醤油持ってくればよかった」と。
あの記事は結局、オチがなかったな、と。
私は、だいたい数日に一食しか食べない。一ヶ月に一食のときもある。宗教上の理由でも、ストイックなポリシーでもなく、ただなんとなく食べたい時に食べるとこのサイクルになってしまう。だから私は食に対して真剣である。久々の一食を「適当」に食べてなるものか。久々の食事が卵かけ御飯だとしよう。先に白身と醤油とを御飯にしっかりまぜて、御飯をふかふかにしてから器によそって、上に黄身を落とす。このときに醤油がちょっと強いかなというぐらいの加減がちょうどいい。醤油の味わい、黄身のコク、御飯の甘さ。複雑にして鮮烈な味わいの粒子群は、腹を空かせた者の頭上に降りそそがれる神からの贈物である。自然と口から出るのは、「ありがたい」の一言。