鮎釣りを趣味とする友人は、今年は天然鮎の最盛期であるはずの初夏から8月の浅野川での釣果は少なかったらしい。9月になってやっと獲れ始め、友人の家には50匹ほどの鮎が冷凍されているらしい。今年もまた、恒例の彼の鮎が振る舞われる会で、ありがたいことにあの香りにありつけそうだ。
鮎は、梅雨の増水後に生えた新鮮なコケを好んで食べて成長するという。ここでいうコケとは湿った地面に生える蘚苔類ではなく、単細胞の藻類のことをいう。このコケが苦味とともに鮎の西瓜や胡瓜の微かで爽やか香りを残してくれる。なのに春先からの暑さと雨量の多さでうまくコケが育たなかったのだろうか。
「今年の暑さは異常」というフレーズもこれから十数年は更新されていくのだろう。「草いきれ」とは夏の季語なのだが、あまりに暑すぎて、あのモアッとした匂いすら嗅ぐことがなかった。
与謝蕪村の句に「草いきれ人死にゐると札の立つ」というのがある。
その昔、猛暑や飢饉の年には、川辺や橋の下で死に絶えてしまう人も多かった。死人がいると「ここに死体あり」という札が立つ。
夏の匂いは人の死とも隣り合わせということか。切ない季語だ。
そして10月の初旬になっても、毎年の近所の金木犀の匂いに包まれる夜にも出会っていなかった。金木犀は気温が高いほど開花時期は遅いという。このところ急に気温が下がったのであのどこか悩ましい香りはこれからか。
食における季節感も旬もどんどん変わっていくのだと思う。誰もここまでの想定はしていなかったろう。もともと人間の欲から通年食べられるようにしてしまった食べ物もたくさんあるのだから、「いまさら感」もないとは言えない。
われわれは果物や花や夏の香りや匂いもすでに失っているのかもしれない。仏壇もなく、帰省する家も片してしまったのでお盆に供えられた桃が熟して放つ香りと線香の煙が混じった匂いを嗅ぐことがなくなった。
9月の後半に用事で2日ほど家を空けることになった。一旦落ち着いた気温も急に上がり、東京は36度という猛暑日になった。金沢は暑さと共に台風が近づき蒸していた。ゆっくり目の出発だったので早めの昼食をとって出かけることにした。とは言え、準備もあってバタバタしながら野菜炒めのようなものを作って食べ、食器を洗い、掃除をしてゴミの袋を持って部屋をでた。
2日後、用事を終えて家に戻りドアを開けた時だった。異様な匂いが鼻を突いた。
頭に浮かんだのは「誰かが死んでいる!」だ。腐敗した死体の匂いを嗅いだことはないので、そんなことはないと思い直して部屋に入り、窓やベランダを開け、換気扇のパワーを最大にした。
消えない。ゴミは出かける前にゴミ捨て場に持って行った。根本的な臭いの元が残っている。死体説が頭に戻る。恐る恐る風呂場をのぞく。人の形は見当たらない。クローゼットを開けるが吊り下がっているのは服だけだ。
死体説は消え、換気のせいでこもった匂いは消えたが、どこからかその匂いはやってくる。
翌日の朝、ミルクを温めようとして電子レンジの中に死体のかけらを発見した。皿の上に載った解凍された鶏肉。出がけに食べた野菜炒めに入れる予定だったタンパク質。レンジの熱を逃すための孔から腐敗臭が漏れ、玄関まで行っていたのだ。100g程度の肉が腐敗するとこんな異臭になるのか。恐るべし猛暑。(いや、そこではないゾ。出がけの野菜炒めに入れ忘れたのだ。)恐るべし加齢。
2日ではなく1週間家を空けていたら、ドアの隙間からこの異臭が漏れ、同じ階の住人によって通報されていたに違いない。ある意味、こちらの方が恥ずかしく恐ろしい。白い目に耐えられず引っ越しも余儀なくされるだろう。
そして、この「夏の匂い」との戦いはまだ少し続いている。電子レンジに残った腐敗臭が消えないのである。重曹や漂白剤を使っても筐体の間に入り込んで染みついた匂いが消えないのだ。何かを温めようとしても、それとは違う腐敗臭がかすかに出てくる。
この匂いがなくなるまで、今年の夏は終わらない。
出版にたずさわることから社会に出て、映像も含めた電子メディア、ネットメディア、そして人が集まる店舗もそのひとつとして、さまざまなメディアに関わって来ました。しかしメディアというものは良いものも悪いものも伝達していきます。 そして「食」は最終系で人の原点のメディアだと思います。人と人の間に歴史を伝え、国境や民族を超えた部分を違いも含めて理解することができるのが「食」というメディアです。それは伝達手段であり、情報そのものです。誰かだけの利益のためにあってはいけない、誰もが正しく受け取り理解できなければならないものです。この壮大で終わることのない「食」という情報を実体験を通してどうやって伝えて行くか。新しい視点を持ったクリエーターたちを中心に丁寧にカタチにして行きたいと思います。