私は過ぎた話をするのが好きな後ろ向きな男である。
もう終わってるじゃないですか、という話を蒸し返す男なのである。
2月28日もとうに過ぎたけれど、2月28日はビスケットの日なのであった。
こういう記念日には語呂合わせのこじつけだったり、なにか由来があるものである。
江戸時代末期、柴田昌敦という蘭方医が水戸藩士から
「なんか西洋ではむっちゃ保存できる食べ物があるらしいんだけれど、この作り方探ってきて」
という依頼を受けた。
そして柴田はオランダ人からその製法を教えてもらい、日本初のビスケットのレシピを水戸に向けて1854(安政元年)の2月28日に送った、ということが『方庵日録』という彼の日記に書かれている記事に因んでのこととされる。
そもそもどうして水戸藩、ビスケットの作り方なんて知りたかったのだろうか?
1853年はペリーさんがアメリカから来航した年で、翌54年は日米和親条約を結んだ年。
この頃の日本は
「外国と戦争するんじゃなかろうか?」
という不穏な空気が漂っていた。
事実、江戸では甲冑(よろいかぶと)のニーズが高まり、価格が大高騰していた。
この当時、武士たちは経済的に逼迫していて、まさか戦なんて起こることはないだろうと思っていたから、先祖代々の鎧などとうの前に売ってしまっていたのだ。
みなそれぞれに不穏な時代の到来、戦の予感を感じ取っていたのである。
腹が減っては戦ができぬ。
戦争の要諦は戦争にはない。兵站である。補給である。食事なのである。
日本はコメ食文化なので、コメを食べる。
コメは確かにコメのままだと保存はきくが、いちいち水を含ませて加熱しなければいけないという、とても面倒な調理方法なのである。
戦国時代、食事は兵たちが自前で調達していた。
御釜を担いでいけるわけもなく、簡単なご飯の炊き方としてこんなことをしていた。
【戦国サバイバル飯 レシピ】
- コメを手ぬぐいで包む
- その手ぬぐいをしっかりぬらす
- できれば湿り気のある土の中に埋める
- その上で火を焚く
というやり方。
体育館の裏の土みたいな臭いのする炊きたてご飯できあがりそうである。
時間はかかるわ、美味しくないわ、さらに敵に「今ランチタイム!攻撃のチャンスはここですよ!」と火を焚いた煙で知らせてあげているようなものである。
いいことが何1つない。
かといって加熱しないで生米を食べればお腹を壊してしまう。
関ヶ原の戦いで家康は「生米は食べるな」と通達を出しているほどだ。
このように、コメというのは有事の際には案外不便なシロモノだったのである。
さて、水戸藩はさっそくこの柴田のレシピに基づいて早速ビスケット作りに着手する。
でも、あのバレンタインデーで女の子が作ってくれるような
「ちょっとかたくなっちゃったかな。えへへ」
なんてシロモノではないのである。
ビスケット、古代ラテン語で biscoctus panisという。
意味は、「2度焼いたパン」。
パンを焼いて、それをカラカラに乾かしてもう一度焼いて水分を抜ききって作られたとても固いパンがビスケットなのである。
それはローマ時代から軍兵の作戦行動中の食事として、のちの大航海時代では船員の糧食としても用いられた最強の保存食なのであった。
そして幕末日本。水戸から遥か離れた薩摩(鹿児島)でも西郷隆盛が敬愛し続けた薩摩藩主・島津斉彬の命で「ビスケット開発プロジェクト」が発足する。
美味しいビスケットでティータイムがしたい、などというオーダーではない。
軍用に開発し、2年ぐらい保存できる方法はないかという軍事プロジェクトであった。
途中、斉彬が亡くなってしまうのだが、それでもそのビスケット研究は続けられていた。
戊辰戦争の折、薩摩藩はあの頂きもの・贈り物でお馴染みの、サクサクのゴーフレットの「風月堂」にビスケットを5000人分もの大量発注している。
ちなみにこのビスケットは黒ゴマ入りであった。
時代は激動の幕末である。
新政府軍の本州制圧は完了し、あとの旧幕府軍は榎本武揚率いる函館を残すのみとなった。
新撰組副長・土方歳三の最期の戦いでお馴染み、函館五稜郭の戦いである。
実はこのとき、函館側の食料としてビスケットが支給されていた。
乾パンなら極寒の地でも凍らないで食べることができる。
あと面白いのは、幕府には漬物方という漬物をつける役職があったのだが、幕府漬物方の山田喜兵衛という人物も函館で戦死している。
戦に保存食の確保は、それこそ死活問題なのだ。
函館が陥落しても、日本の内乱はまだ終わらなかった。
明治10年、武士たちの最後の武装蜂起が起きる。
西郷隆盛率いる薩摩軍と政府軍の戦い、西南戦争が勃発する。
この時に官軍側で糧食に困る事態があって、フランス軍艦から食料支援を受けることになったのだが、軍艦から支援を受けるのだから、その食料はやはり長期保存のビスケット。
ちなみにこの当時のビスケットのお味はどうかというと、この当時の日記などの記録類に基づけば、「ビスケットは、まずくて食べられたものではない」という感想だった。
日清、日露と日本の戦争は続いていくが、この頃からようやく保存のみならず味の改良が行われることになっていく。
戦のビスケットの味は、甘くなかったのでござる。
私は、だいたい数日に一食しか食べない。一ヶ月に一食のときもある。宗教上の理由でも、ストイックなポリシーでもなく、ただなんとなく食べたい時に食べるとこのサイクルになってしまう。だから私は食に対して真剣である。久々の一食を「適当」に食べてなるものか。久々の食事が卵かけ御飯だとしよう。先に白身と醤油とを御飯にしっかりまぜて、御飯をふかふかにしてから器によそって、上に黄身を落とす。このときに醤油がちょっと強いかなというぐらいの加減がちょうどいい。醤油の味わい、黄身のコク、御飯の甘さ。複雑にして鮮烈な味わいの粒子群は、腹を空かせた者の頭上に降りそそがれる神からの贈物である。自然と口から出るのは、「ありがたい」の一言。