お土産にイカシュウマイを買ってきてくれと言われ、飛行機の出発時間ギリギリにもかかわらずダッシュでお土産売り場に買いに行った。すると店員に「今年はイカの歴史的な不漁によりイカシュウマイは発売されてないんです。そのかわりといってはなんですが、新商品のタコシュウマイはいかがですか?美味しいですよ。」と言われた。
えええ!?イカシュウマイが無いだと!?イカが無いからタコはどうだだと!?シュウマイはイカじゃないと話にならん、タコシュウマイなんてそりゃ事実上タコ焼きやんか、と店員にツッコミを入れたら、「お客さん!タコ焼きは焼きますが、タコシュウマイは蒸すんです!全然違います!」とムキになって言い返された。こんなにダッシュしてきたのにイカシュウマイが無いというショックもあってついカッとなり、焼こうが蒸そうがタコ焼きもタコシュウマイも似たようなもんじゃあ、いいえまったく違います、何だとお、何が違うか言うてみい、というふうに店員と口論になってしまった。
しかしよくよく考えてみれば、店員の言うとおり、確かにタコシュウマイはタコ焼きとはだいぶ違う。「タコシュウマイは事実上タコ焼きである」という、思わず僕の口をついて出たこのロジックのほころびを店員にズバズバと突かれるうちに、確かに違うよなあと自分でも気づいてしまい、言葉に詰まってしまった。そしてそれが敗因で結局タコシュウマイを買う羽目に。しかも2個。
チッ、まあしゃーないな、いくらイカシュウマイが無かったからといっても手ぶらで帰るよりはマシか、とトボトボ手荷物検査場を通り過ぎると、7番ゲートはもう閉まっていた。
そして僕は飛行機に乗り遅れた。
食べる。食べるために調理をする。調理をするために食材を得たり作ったりする ― これら「生きていくために一日に二、三回どうしても行わねばならぬ厄介な行事」には、山川草木に相談する「自然」との対話があり、心身を充実させる「自分」との対話があり、同じ釜の飯を食う「人間」との対話がある。人間の全生活がかかっているこの一大事を、だからこそ、私たちはもう一度根本から見直し、時代や環境に合わせて新しく創り、それらを通じて自然や人間との関わり方をあらためて考えていきたいと思う。