- 書名:生まれた時からアルデンテ
- 著者:平野紗季子
- 発行所:平凡社
- 発行年:2014年
生まれた時からアルデンテ。を、食べていたのである、著者は。アルデンテに反骨精神を燃やすナポリタン好きとは距離を置く。パスタ好きを自認した小学生の頃に好きだったのはからすみと水菜のスパゲティ。
2014年出版時に23歳だった著者・平野紗希子は関東にある小学生当時の食べ歩きダイアリーに、あのロバート・デニーロが出資していた(と思う)NOBU TOKYOを評して「中の上」「和洋混ぜ合わせ料理が楽しめるけど微妙。やっぱり和は和で、洋は洋で食べるのが一番かもねー!」と書いている。
さらに、父親にねだって行ってみたかったチェーン居酒屋へ。オススメ料理は有機野菜のみ、2度とくることはないとばっさり。代官山「HIRO Ⅱ」はお気に入りでベタ褒めである。渋谷の天ぷら「天松」ではお気に入りに、いものテンプラ&稲庭うどんをあげている。渋い小学生。
この本の冒頭で「私の食卓には生活がない。生活なんていらない。食は日常に取り込まれた瞬間、平然と熱気を失ってしまうから。スローな生活の湿度は、食の鋭い輝きを殺してしまうんだ。」と宣言している。
もちろん、海原雄山の言葉ではなく、高校生の時から山本宇一氏のロータスカフェに通い、山本氏とのちょっとした会話から1年間働いていたことのある若者の言葉である。近年、結婚された今はそう考えているかはわからないが、信念としては変わらないのではないだろうか。
外食行事が盛んな家に育ち、アメリカの高校留学し(調べによると食生活はとても不満だったらしい)、慶應へ進み、博報堂に。社員でありながらエッセイストでコピーライター(だった?)。
「小さい頃からそんないいもん食ってんの・・?絶対ろくな大人にならない」と大人に言われたことを根に持っていたらしい。「いいもん食う大人is悪い大人になる」の論理は成立するのか?その相手を「お前は卑屈なブリア・サヴァランかよ・・!」と心の中で一喝する。
自分は、その大人になった平野紗希子氏を目の前にし、自己紹介のようなプレゼントークを聞く機会を持った。
素晴らしい大人である。彼女の幼少からの食体験は確実に健全な栄養であり、それは脳細胞を育て、揺らがない精神をつくり、言葉を紡ぎ出す力を与えていると思う。
良い食、選んだ食は確実に人間を創る。もし社会的に行儀の悪い人間になっていたら、それは同じものを食べても彼女のようにちゃんと向き合って食べて来なかったからだ。バブル期に雑な食べ方をしてしまった人の後遺症でもある。
彼女は23歳にして「人と繋がることできなくてもいい、自分にしかわからなくてもいい。たとえそれがよそからみれば卑屈でも孤独でも、せめて食べることについては純粋に喜びたい。誰かと一緒じゃ曲がれない道もあるのだ」と悟っていたことがすごい。
パフェ、フルーツサンド、noma、駅そば、オニオングラタンスープ、ピエール・ブルデュー、ガストロノミー、ベジタリアン新橋本店、かき氷、はんぺん、麦茶、ごちそうさま、マカロン、唇チョコレート、チーズおかき、スヰートポーヅ、伊丹十三、アボカド、シベリア、山本宇一、食品サンプル、メニュー、オブラート、松島屋の団子、トースト、ナポリタン、きゅうりのぬか漬け、ロイヤルホスト、棒付きアイス・・・・
この本にはセレブな食体験が書かれているわけではない。著者の優しい視点で見つめる身の回りの食の世界との共存の仕方が書かれている。それもグッとくるコピーのタイトルを添えて。
恐るべき小学生だった平野紗希子の本を読んで、食の格差を考え始めた。コロナ禍の影響だけでなく、いろんな状況で「食を考えること、向き合うこと」がないがしろになっているのではないだろうか。特にいま高校生や中学生のことを考える。食から文化に接していくことが取り残されている気がする。ここ数年後、10年後に食の空白が生まれそうで怖い。
出版にたずさわることから社会に出て、映像も含めた電子メディア、ネットメディア、そして人が集まる店舗もそのひとつとして、さまざまなメディアに関わって来ました。しかしメディアというものは良いものも悪いものも伝達していきます。 そして「食」は最終系で人の原点のメディアだと思います。人と人の間に歴史を伝え、国境や民族を超えた部分を違いも含めて理解することができるのが「食」というメディアです。それは伝達手段であり、情報そのものです。誰かだけの利益のためにあってはいけない、誰もが正しく受け取り理解できなければならないものです。この壮大で終わることのない「食」という情報を実体験を通してどうやって伝えて行くか。新しい視点を持ったクリエーターたちを中心に丁寧にカタチにして行きたいと思います。