- 書名:ニワトリと卵と、息子の思春期
- 著者:繁延あづさ
- 発行所:婦人の友社
- 発行年:2021年
人間には喰われる自由がない。なので他の動物の餌になり、くい散らかされて残った肉や骨が朽ちて土に戻るという自然な循環システムに100%参加できない。
この本は「母」の思想と権限でゲーム機購入を拒んでいたが、代わりにニワトリを飼わせろという長男の緻密で知的な攻略に屈しながら、家族それぞれが成長、いや、物の見方、生き方を変えていく実話だ。
著者である母は写真家であり、命をテーマにした写真を撮っている。出産であり狩猟である。2011年に中野から夫と3人の子供と共に長崎に引っ越し、生活を変えたことからも読み取れるように(と言っても越したのは住宅地だが)、五感の体験を重要視し、彼女にとって対極にあると思われるゲーム不要論者だったのであろう。
五感の体験と重んじるとはいえ、動物を飼ったことがない母は長男の提案に怯む。周りの大人の意見には弱いと見透かした長男は、ニワトリを飼うことの計画書を作り、近隣の大人たちを協力者として巻き込み、場所を借りたり養鶏家から教えを乞い、周りから固めていくのである。
息子は「命の重みは等しいか」という授業で、クラス全員がほぼ「等しい」というなか一人「そうは思わない」とした。その理由として「実際に経済動物というのがある」と話す。
人間は家畜のような経済動物にもなれない。
長男の手書きの<にわとり飼育計画書>の表紙には「飼いたい理由:卵がとれるから」とある。
きっかけは母が図書館から借りてきた『ニワトリと暮らす(和田義弥著 今井和夫監修)』に感化された様子だ。本書には書かれていないが出版社による解説には次のように書かれている。
「本書は庭先養鶏に挑戦したい人のための実用書として、実際にニワトリを飼っている人の実例集から、飼い方の疑問を解決するためのQ&Aとその具体的な方法、ニワトリ小屋の作り方やニワトリの捌き方までを各章ごとに分け、ニワトリを飼う流れについて完全網羅した一冊です。
改訂版では都内でニワトリを飼う人の養鶏実例や、著者自らの体験や初めて養鶏にチャレンジする人のためのアドバイスを図版や写真を交えてエッセイとして追加しました。」
長男はやってきたニワトリに名前をつけない。家畜として飼うことを決めていたのだ。そう強く思わないと飼えなかったのかもしれない。思春期の長男は「命」というものと向き合おうとしたのだろう。
長男はこの後に「ニワトリ飼育計画」を提案するのである。
ゲーム機の購入で揉めた時、長男は「ゲームするかしないかは自分で決める。だってオレのこの時間はオレのものだし、オレにとって何が必要かオレにしかわからない。お母さんにはわからない!」と言い放った。
こうしてニワトリの飼育は始まり、一喜一憂があり、長男と家族は最後までその命に向き合い、経済動物としての一生を全うさせる。家族は小さな社会だが、「食べ物を飼う」ということでその社会は考え、成長する。
追記:雄鶏は明け方からコケコッコーと鳴くが、雌は朝には鳴かないということを、恥ずかしながらこの歳で初めて知った。
食育というものがあるが、「命をいただく」的なステレオタイプな言葉で教えるのであれば結局は何も伝わらないのであろう。
ここの本は思春期前の子供を持つ親に読んでもらいたい。しかし、間違っても子供の体験のために家畜を飼おうなんて思わない方が良い。家畜は食べるものを産むか食べるために育てるものだ。
出版にたずさわることから社会に出て、映像も含めた電子メディア、ネットメディア、そして人が集まる店舗もそのひとつとして、さまざまなメディアに関わって来ました。しかしメディアというものは良いものも悪いものも伝達していきます。 そして「食」は最終系で人の原点のメディアだと思います。人と人の間に歴史を伝え、国境や民族を超えた部分を違いも含めて理解することができるのが「食」というメディアです。それは伝達手段であり、情報そのものです。誰かだけの利益のためにあってはいけない、誰もが正しく受け取り理解できなければならないものです。この壮大で終わることのない「食」という情報を実体験を通してどうやって伝えて行くか。新しい視点を持ったクリエーターたちを中心に丁寧にカタチにして行きたいと思います。