2023.08.31

信長がブチ切れた食事メニュー

1582年(天正10年)5月、織田信長が明智光秀に接待役を命じ、武田勝頼討伐に功のあった徳川家康や旧武田家臣・穴山信君(信玄の姉が母で、信玄の娘が妻)を安土城に招いてもてなした時の饗応メニューが『続群書類従』に載っている。このイワクつきの『天正十年安土御献立』についてみてみようと思う。

この2週間後、信長は本能寺の変で光秀に殺され、堺を観光中だった家康と穴山梅雪は命の危険を感じて猛ダッシュで三河に逃げるという家康三大ピンチイベントの一つに数えられる「伊賀越え」イベントが発生するのである。この時、穴山信君は家康と別行動をとったがために落武者狩りに遭って死んでしまう。持っていた大金を家康に奪われたくなかったという説や、痔が悪化して馬に乗れなかったから別行動をとったとする説もある。

 さて、この家康御一行様の接待役が明智光秀だったのだが、信長がブチ切れている。その後1ヶ月も経たないうちに信長を殺しており、この時にブチ切れられた「怨恨」が本能寺の変の動機になったとする説も巷間に広まった。

 しかし光秀は、細川藤孝を除けば、織田家中では随一といっていいほどに文化や教養に造詣が深く、プランニング能力は抜群。天正9年に京で行った信長の馬揃え(閲兵式パレード)の総責任者にも任命しているほどで、信長からの光秀にかけるイベント能力に対する期待は非常に高かった。

 さて、信長がキレた「をちつき膳」は、家康をもてなす初日・15日のランチである。構成は、「本膳」「二膳」「三膳」「与膳」「五膳」「御菓子」で構成されている。

『続群書類従』の『天正十年安土御献立』には、「かわたて」というのが散見される。かわたて、とは甲立と書き、金箔の紙を皿に敷いたもの。金箔一枚に盛り付けるのである。わー、豪華―。他には「をけ金」というのもあるが、料理の皿を載せる台に金や銀を塗り、そこに絵をつけたもの。いわゆる彩絵である。

では、以下に献立を列挙してみよう。

[本膳]

タコ(茹でたもの)、鯛の焼物(ヒレを立たせるのがルール)、菜汁(具は青菜)、膾(鯉の身を細く切ってワサビ酢と和えたもの)、香の物、ふなのすし(琵琶湖名物)、御飯

[二膳]

うるか(アユの内臓・卵を塩漬けにしたもの)、宇治丸(ウナギをそのまま焼いたもにに醤油タレをつけた)、ほや冷汁(ホヤは伊達政宗も大好物 ※過去記事参照)、ふとに(長芋を干し海鼠で巻いて、すめ味噌という味噌汁の上澄で煮たもの)、かいあわび、はむ(ハムではない。鱧のこと。この頃から食べられるようになった)、こいの汁(当時、鯉は魚の王様)

[三膳]

やきとり(鶏ではなくて、当時の鳥は雉)、つる汁(鶴の肉を塩漬けにしたものが汁の具)・やまのいも、かざめ(渡り蟹のこと。室町後期の饗応料理によくみられる)、にし、すずき汁(鯛・鯉と双璧をなす高級魚・鱸)

[与膳]

巻きするめ、鴫つぼ(ナスでピーマンの肉詰めにした感じの料理 ザックリ)、鮒汁、しいたけ

[五膳]

まながつお刺身、生姜酢(刺身をつけてお召しあがりください)、ごぼう、鴨の汁(鴨のシーズンではないから、塩漬けかな?)、削り昆布

[御菓子]

羊皮餅(牛皮みたいなモチモチしてそうなことはわかるけれど何だろう?)、まめあめ(炒り大豆を飴でからめた茶会料理)、美濃柿、花に昆布、から花(檜の板を薄く削って、それを花に仕立てた造花)

これが「をちつき膳」ランチメニューである。

江戸時代の読み物だから全然アテにならないのだが『川角太閤記』によると、この料理に信長がブチ切れた。ブチ切れて光秀を蹴り倒したというのだが、一体どこに問題があったのだろうか。

「魚が生臭ぇぇぇ!」

とキレたというのである。

どの魚かは言っていない。この中だと、鯛か真魚鰹だろうか。

鯛はずっと家康の接待料理に出続けるのだが、理由は家康の好物が鯛だから。好きなもの出してあげようという優しさ。

問題は、真魚鰹だが、真魚鰹は臭みのない魚だからこれも該当しそうにない。

ちなみに真魚鰹は鰹という名前はついているけれど、見た目はカワハギとかマンボウに似た感じの魚でカツオではない。

他に「臭ぇぇえ!」っていうものは鮒ずし。琵琶湖のニゴロブナを使った発酵料理。しかし琵琶湖の蟠踞する信長が鮒ずしを知らなかった筈もないだろうし、家康の好みの鯛も知っていたぐらいだから「家康さんって鮒ずしってイケる口ですか?」って予め聞いているだろう。

光秀が信長から「魚くせぇぇよ!」ってキレられる理由もちょっと見当たらない。

もしコレで本当にキレられていたとしたら、光秀としては理不尽極まりなく、「いつかやったろうと思って我慢していたけど、もう限界だわ、ワシ」って思うかもしれない。

しかし、本当にキレてしまったのは、穴山信君の痔の方だった。

村松藤兵衛に宛てた年が不明の穴山信君の書簡がある。これを抜粋すると

近日痔病再発、以之外相煩候、去々年再発之砌も、其方薬相当候キ、只今此飛脚に越可給候、并薬付候模様、養生之次第懇ニ注之可給候(略)(『五月二十二日付穴山信君書状』)

と、『戦国遺文武田氏編〈第6巻〉』3852号にある。

意訳すると

「最近、また痔が再発した。結構ヤバいです。一昨年に再発したときに、あなたの薬がむっちゃ効いたので、今すぐ、もう大至急で送ってください。そしたら薬つけてむっちゃ大人しくして養生します」

と、かなり痔がキツい様子が伝わってくる。

痔の辛いお手紙で歴史上屈指の痛そうさが伝わる手紙だ。余談だが痔の痛そうなお手紙ランキング堂々の一位は芥川龍之介が下島勲にあてた手紙で

「恰も阿修羅百臂の刀刃一時に便門を裂くが如き目にあひ居り候へば…」

である。阿修羅百臂の刀刃一時に便門を裂く…まさにこの時の穴山信君もそのレベルの激痛だっただろう。

 この5月22日がいつかはわからないが、この安土城での饗応の後なのだとしたら、馬に乗れないのも無理はない。そして、この饗応料理、どう考えても消化には悪そうである。痔の大敵は、ストレス、飲酒、座り続ける、消化に悪いものを食べる、である。

 実はこのとき、穴山信君は武田の一門衆でありながら武田勝頼を裏切っており、結構非難にさらされていたし、武田家の血筋が滅んでしまうのではないかというストレスもあっただろう。さらにこの饗応料理で座り続け、消化に悪いものを食べる2日間。

この料理が「阿修羅百臂の刀刃一時に便門を裂」いた原因になったかもしれない。

ちなみにこの「をちつき膳」にはちょっと変なところがある。

それは当時の儀礼としては、最初に三つの盃に三度づつ、都合九度酒が注がれるという「式三献」(結婚式の三々九度の祖型)から始まるのが普通なのだが、この5月15日のランチではその酒が出ていない。

信長が形式ばったことを嫌ったから、といわれているが、もしかすると「穴山さん、痔で酒ダメそうだから、酒無しにするかー」という配慮だったのかもしれない。

私は、だいたい数日に一食しか食べない。一ヶ月に一食のときもある。宗教上の理由でも、ストイックなポリシーでもなく、ただなんとなく食べたい時に食べるとこのサイクルになってしまう。だから私は食に対して真剣である。久々の一食を「適当」に食べてなるものか。久々の食事が卵かけ御飯だとしよう。先に白身と醤油とを御飯にしっかりまぜて、御飯をふかふかにしてから器によそって、上に黄身を落とす。このときに醤油がちょっと強いかなというぐらいの加減がちょうどいい。醤油の味わい、黄身のコク、御飯の甘さ。複雑にして鮮烈な味わいの粒子群は、腹を空かせた者の頭上に降りそそがれる神からの贈物である。自然と口から出るのは、「ありがたい」の一言。