2019.05.07

和食に見るそもそも旬論 薬味や鱧や蒲焼のこと

鱧料理

日本料理の春の旬を知る対談、完結編です。 ここまで、マグロ前編マグロ後編山菜編鳥肉編と巡って参りました。
春の旬の話から次第に展開し、最後は薬味の起源、鱧、蒲焼に至るまで、とどまることを知らぬ、食欲をそそる食トークをお楽しみください。

薬味の生んだ粋と鉄の鍬焼き伝説

農業のイメージ

三石:riffのうどんの回で書きましたけど、江戸時代ではうどんの薬味はもともと胡椒だった。 胡椒はその当時、かなり広まっていた薬味だったので。

髙木:当時の胡椒は当然、国産じゃなくて舶来のものじゃないですか。 舶来のものがそんなに広まるんですか。

三石:うん、需要があったんですよ。

髙木:それはアフリカのやつですか?

三石:日本のはインド産で、オランダ船によって輸入されたということを唱える方もいらっしゃいますが、11世紀ぐらいからインドネシアの胡椒が中国にバンバン入ってきているので、私はインドネシアの胡椒なんじゃないかと思ってます。

髙木:東南アジアのものがどうやってそんなに入ったんですか?

三石:江戸時代以前ならば有力守護や大名が商船を派遣して中国と貿易してましたし、江戸時代でも長崎で清国と貿易してます。

髙木:なるほど、確かに当時の江戸料理で、胡椒ご飯っていうのもありますね。

三石:胡椒飯は町人のソウルフードですね。

髙木:ほう~。そんな高価なものではなかった? 胡椒ご飯っていうのは潰して入れるんですか?

三石:ヨーロッパに比べると産地が近いことと、熱烈な需要があったわけではないので、ヨーロッパに比べれば安いです。胡椒飯は荒く潰したものを使います。

髙木:炊く時から入れる?

三石:胡椒をふりかけて、上に熱いすまし汁をかけて、ササッとかっこむっていう。

髙木:そっちのほうが美味そうですね。出汁さえちょっと考えれば。 これも一回、ちょっとやってもらいますね、今さんに(笑)

三石:江戸時代のうどん再現ということで、うどんに胡椒もやってもらいましょう。

髙木:胡椒がそんなにあったら、当時ジビエとかに合わせてないんですかね。

三石:江戸時代頃、香辛料、薬味の類は肉に合わせてます。やっぱりまあ、臭いんでしょうね。当時はおおっぴらに肉が食べられてなかったので、食べ慣れてなかったでしょうし。 薬味っていいましたけど、蕎麦に必ずつけるじゃないですか。あれは、もともと蕎麦には「蕎麦の毒」があると考えられてたので、それを消すための薬として用いられていたらしい。

髙木:それが「薬味」と。

三石:『蕎麦全書』という江戸時代の蕎麦マニアが書き残した本の中で、大根のしぼり汁は蕎麦の毒を消す作用がある。ほかに、ワサビは辛い大根がないときの代用だ、とか色々書いてあります。そこからしても、獣肉にも毒があると考え、山椒なりの薬味を使うのは当然の流れですよね。

髙木: 確かに、ちょっと添えるものは「毒消し」って僕らも習った気がしますね。 実際に消えることは無いなと思いながら、ちょっと苦いものを添えたりするじゃないですか。 あれに関してはそういう効果を期待していたと。

三石:東洋医学的にいうと、甘・苦・酸・辛・鹹(塩味)という五つの味があって、それぞれが五臓に対応しています。ミョウガとか春菊とか苦いものは炎症を抑え、「心」の臓を補うことができると考えます。

髙木:実際、蕎麦には毒があったんですか。

三石:『本朝食鑑』という江戸時代初期の書物には、蕎麦切りをたべた後にそば湯飲まないと病気になる、と。当時、蕎麦には「麺毒」があって食あたりになるんだと信じられていました。当時は保管状態がよくなくて蕎麦の実に細菌がつきやすかったことも関係していると思います。あと、蕎麦は食物繊維が豊富なのでカルシウムとかマグネシウムとかが不必要に排出されて健康障害起こそうと思えば起こせるかもしれませんけれど、いったいどれだけ食べるんだって話ですよね。

蕎麦の薬味、ネギ
髙木:一人五キロくらいとか…。 蕎麦も、せいろってあるじゃないですか。もともとあれ、本当に蒸してたんですか。
僕らの感覚でいうと、せいろって蒸す道具だと思ってるじゃないですか。
しかも、蕎麦屋さんのせいろって、積めるじゃないですか。 ますます、蒸す道具じゃないかなって気がしたんですけど。

三石:江戸時代、蕎麦は蒸し料理だったようです。和菓子屋が饅頭とかを蒸すついでに蕎麦を蒸していたことが起源ともいわれています。その名残があの「せいろ蕎麦」なんだと。でも、実際のところは、よくわかりません。

髙木: でも実際、せいろとか、ざるそばだけ見たら、どうやっても蒸し器にフィットする機能というかデザインだと思うんですよね。
しかも洗いやすくなって取り外しできる。 もしそれが器だけであれば、取り外す必要が果たしてあったのかっていう。

三石:平安時代くらいの段階ですと、蒸し、焼き、揚げ、基本的にこのくらいしか無いんですよね。
平安貴族のパーティー儀式料理である大饗料理を見ても、煮る、茹でる料理はすごく少ないです。焼いたり、生だったり、乾燥させたものだったり。そもそもの金属製鍋がかなりの高級品でしたし。

煮料理、茹で料理の普及は、料理の革命だったといえます。暖かいものを冷めにくい状態で出せて、味のある汁で煮込まれている。 だから鉄鍋が普及した鎌倉・室町時代では「料理」そのものが飛躍的に豊かになっていったように思います。

髙木:でも鉄鍋じたいはもちろん、いろんな形状あってもその時代にできてきた。
でも、その前も少なくとも鉄はあるわけじゃないですか。それで熱に強い、水に強い素材だということは当然、認識されてるわけじゃないですか。農機具に使われたり。 それはもっと早くに使わんかったんですかね。

三石:実際、あるにはあったんですけど、すごく高価な道具でした。
例の平安時代の『延喜式』によると鉄鍋が献上されていて、それぐらいのレベルのものだった。
そこには「鉄ってそんなことに使っていいんだっけ?」みたいな発想の足枷があったのかもしれません。
その後、鎌倉時代に禅宗が宋から料理方法などを学んで導入して、日本で料理の発想に対するブレイクスルーが起こっていきます。

髙木:その当時の農機具の素材って何なんですか?

三石:農機具、鉄です。でも、別に全部、鉄じゃなきゃいけないわけじゃなくて、必要のある先っぽだけあればいいので、先っぽだけ鉄という。 全部が鉄でできているのは、開墾作業とかのハードワーク用です。

髙木:鴨でも、鳥でもそうなんですけど、鍬焼きって言葉があって、僕らの感覚で言うと酒、醤油、ちょっと砂糖入れるところもあれば味醂入れるところもあって。そのタレで絡めながら焼くのが鍬焼きって言うんですけど、その鍬焼きの鍬っていうのが農機具から取ってるんだっていう説もあって。
外でお百姓さんが焼く時に使ったから、っていう。それは俗説なんですかね。

三石:うーん、鍬の先っぽの鉄の部分で焼くのかあ。 無かったとも言えないし、あったとも言えないです。
あとは、和えるということから、鍬は土と和えるじゃないですか。だから、和える作業と似てるという考え方から、鍬焼きというネーミングがついたという推測もし得るかな…。

ネーミングって、なんとなくのインスピレーションで先について、それから元々はこうなんだという起源がついていく感じで付会(関係づけ)されていくことは多いですよね。

幽庵焼き、甘露煮など日本料理の名前の由来

和食について語る料理人・髙木慎一郎
髙木:今、例えば外国人のお客様が来たときに、今日はのどぐろの幽庵焼きですよ、と。
幽庵焼きって何ですか?て聞かれた時に、酒と味醂と醤油に、漬け込んで焼いたら幽庵焼きですよ、て言うんですけど。
幽庵と、その焼き方のリンクしてる理由がよくわからない。
なぜそれが幽庵焼きなのか。

三石: 人名ですね。北村祐庵(幽安、幽庵など)という江戸時代の茶人というか通人というか、あらゆる藝道に通用していた人の名前からとっています。この人、なんと「神の舌」を持っていて、琵琶湖のどこから汲んだ水かをひと舐めしただけでわかったらしい。田楽を食べたら、その串の産地まで言い当ててしまう。
そんな彼が幽庵焼きを創作したから、その名がついたといわれています。この料理を作ったかというと本当かいなと。多分、事実じゃないでしょう。

祐庵が考案した料理だから美味しいよ、という喧伝のためか、こんなに美味しいから祐庵が作ったんだ、みたいな発想からのネーミングでしょうね。

髙木:これから外国人に料理を説明する時に、幽庵焼きって何?すき焼きって何?っていう。

焼いてるのに焼いてないじゃないかという。そういうところの説明って必要になってくるのかなと。
なんでこの名前がついたのかっていう。
「ぶり大根」ならわかりますよ、ぶりと大根だから(笑)
でも、甘露煮とか、そういうのってきちんと把握するタイミングって必要だなと思いますね。

三石:甘露はサンスクリットのヴェーダ文献などに出てくる不老不死の霊薬・アムリタを漢語に翻訳したものです。

髙木:甘露というのは名詞ですか。

三石: 名詞です。ちなみに甘露門といったら御仏の教えのことをさします。 お釈迦様の誕生日に甘茶をかけるのも、元来はアムリタをイメージしてるわけです。
甘くてトロッとしてる、仏様にかける甘茶っぽいなぁ、から甘露ってかっこいい言い方だから甘露にしよう、みたいな流れなんじゃないかと思います。
そして料理などが、茶席に上っていく過程で、どうしてもかっこいい名前が求められてくる。

茶席に「ぶり大根です」じゃダメなんですよね。 ぶり大根に、かっこいい何かの風景に合ったお題をつけるみたいな。

今日の器の銘はなになにです、みたいな、和歌から本歌取りしたりとか、自分の教養からネーミングをつけるという。

髙木:…自己顕示欲しかないですね(笑)。実は茶道具自慢のためのお茶会なんてのもきっと多いと思います。でも、確かにそう言われてみると、当て字なんかもそういうところから出たんですよね、きっと。

三石:なので、茶の湯の料理の系譜である会席(懐石は当て字)料理には、これがなんでこの名前になんだろう、みたいのはありますね。
ぶり大根的なわかりやすいものじゃなくて。

鱧は縄文時代から食べられていた?

髙木:お茶の料理の話になったんで聞きたいんですけど、鱧(はも)って平安時代ですよね、食べられるようになったのは。
あれは当時の格付けとしてはどういう格付けなんですか。

三石:鱧、平安時代には例のごとく干されて都に届けられています。変な言い方ですけれど、格はちゃんとしてると思います。マグロみたいに下魚の扱いは受けていないです。明治の時点でも明治天皇の好物ですし。
そして鱧食はかなり遡ることができて、縄文遺跡でも鱧の骨が見つかってます。

髙木:じゃあ骨切りはその頃からやっていた?

三石:すり身かそのまま汁にするかしかなかったでしょうね。

髙木: もし仮に骨切りをやってないとして、料理するとしたら絶対食えないでしょう。
そんな簡単なものじゃないですよね、あの骨って。結構、固いですし。
骨切りをするとしたら鋭利な包丁も当然、無くちゃいけないし、骨の構造も知ってなきゃいけないじゃないですか。僕の友人で、龍吟っていうお店やってる山本さんっていうのがいるんですけど、彼はかなりの変態料理人で、CTスキャンしてましたからね。

三石:鱧をCTスキャン(笑)

髙木:それをさせる医療機関もどうかと思いますけど(笑)

そうした時に、鱧の骨がどういう風に回って生えてるかわかったと。 さらに、骨って同じ太さにならないじゃないですか。必ず先に向けて細くなっていく。
まっすぐでは絶対にない。
そうした時に、まっすぐ包丁を入れると、鋭角になる。

だから我々は、包丁を寝かせて切る。つまり、骨の断面を鈍角にするためにやっている。
これが骨切りの角度の秘密なんだっていう話をした時に、なるほどなと思ったんですけど。

三石:素晴らしい変態料理人(笑)

髙木:だから、誰が斜めにしたのかわからないですけど、誰がどうやって、その技術がわかったのかっていうのが気になりますね。

三石:鱧の骨切りの庖丁の技術ということになると、平安時代から始まるといわれる日本料理術の四条流庖丁式というのがありますが、室町時代に成立した足利家の庖丁人(料理人)である大草流あたりなんか調べてみたら出てくるかも…。

ちょっとわかりませんけれど。ただ骨切りは室町末には手法ができていくはずです。

ちょうどその時代には包丁を扱って料理することは、武家や公家のリベラルアーツの1つになっていました。
男が衣服を正して料理をするというのは立派な男子の嗜みだったんです。

髙木:今でいうとタキシード着てやるみたいなものですね。

三石: そうそう。ちなみに四条流庖丁式などの古式だと、装束は烏帽子と直垂(ひたたれ)を着て直接食材に触ることなく料理します。

髙木:二週間くらい前に、中国の貴陽市に行ってきたんですけど、先住民族のミャオ族のおもてなしを受けて。

それが何かというと、お客様には指一本、使わせない。飲む時も、食べる時も。

三石:ほう。

髙木:注意されるのは、絶対に手を使わないで、触れないでと。盃をあてがわれてお酒が延々と(笑)
それで、お酒ばっかり飲んでるとまずいじゃないですか、料理がこうやって来るわけです。
あれはもう、地獄でしたね本当に(笑)

出来上がった料理、蒲焼

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三石: 話が戻るんですが鱧がそんな格上の魚だったとしたら、茶席、茶懐石で出るのは普通ですよね。
でも本来、海と川の魚だったら川のほうが格が低いですよね。

三石:格的にはそんなことはないんじゃないかしら。京は川魚、江戸は海魚の文化。文化の差というだけで。

髙木:例えば、川魚なんかを盛り付けるときに本来は腹を向こうにしなきゃいけないというルールも聞いたことがあるんですけど、あれは陰の魚だからっていう。 でも、鮎をそんな反対側に向けたら頭おかしいんじゃないかっていう感じになりますよ。

三石: 腹か背かでちょっと思い出したんですけど、鰻もありますね。江戸は腹を切るは切腹に繋がるというので背開きにして、上方では腹を割って話すというので腹開き、っていうのありますよね。

でも、絶対こんなの後付けですよ(笑)
もともとの鰻の蒲焼のスタイルは塩しておいて、頭と尻尾落として串に通すという、見た目としてはフランクフルトみたいにして食べる物です。植物の「蒲」あるじゃないですか。それが蒲の穂に似てるから「蒲焼き」なんです。

髙木:いつからああいうスタイルになったんですか。

三石: 江戸時代の初期ぐらいですね。
江戸時代になると料理方法が格段に豊かになってきます。技術がみるみる向上していく。平和って食の発展には大事なんですよ。平和で安定した社会だと、生きるか死ぬかのための食事ではなくなるんですよね。

髙木:とりあえず食うことに精一杯ではなくなる。

三石:江戸時代に、うちらの生活は安定してるぞ、死ぬことないぞってことがわかってくると、人のベクトルが教養だとか遊びだとか、人生を豊かにする方向に向かっていく。大衆の識字率も文化度も上がってきて、いろいろな発明とかされる。さらにそれが売れれば貨幣経済に波に乗っかるんですね。

江戸時代には料理書とかもたくさん出てきて、あんなレシピ、こんなレシピ、みたいなものができてくる。タイムスリップしなきゃいけなくなったら、私は江戸時代に行きますね。味覚的には和食に関してはほぼ今のスタイルが確立されているので食べ物が合わないってことがなさそう。

髙木:でも、蒲焼の語源はなるほどそうだと思うんですけど、あの横串を打って焼いて、東京だと蒸したりもしますけど、あれってすごい出来上がった料理法なんですよ。焼いてるだけなんですけど、うなぎはあれ以上しなくていいんじゃないかっていう、本当にミニマムでマックスな料理法なんですよ。
あれはすごいなと思いますね。
ただ焼いてるだけ、タレをつけるだけ、それで仕上がってるんですよね。あんまりそういう料理って無いと思うんですよ。しかもご飯に合うという。


…うららかな春の食べ物対談は、収束するどころか全員が空腹になるまで続きました。
料理人・髙木慎一朗と、歴史家・三石晃生ほか、オープンソースのメンバーや個性豊かなゲストによる対談は今後も企画いたします。
ご希望のテーマなどございましたらお寄せ頂けますと幸いです。