2023.07.25

たべたいの
【私の食のオススメ本】

  • 書名:たべたいの
  • 著者:壇 蜜
  • 発行所:新潮社
  • 発行年:2017年

人は食べ物と「共存」している!?

この本は著者、壇 蜜本人が書いているように「読めばそのテーマになった食べ物が欲しくなるような内容」ではない。食べ物(食べる場所)と自分の関係を書いているだけである。しかしそれは、一つの食べ物の「変」な記憶と「少しだけ異常」な想像力で綴られている。

そして読者には「それぞれの食べ物にも存在する事情があるのだから、共存しようじゃないか」と寛容な気持ちで読むことを求める。

本書に取り上げられた60近い食べ物にはそれぞれ自作の俳句(川柳?)が添えられ、自分のためのメモのような独り言のようなイラストも描かれている。

文章の面白さの説明は省いて、内容を少し紹介するとこんな感じだ。

キャラメルで メロンの味を 知る子供

『メロン』の味の記憶について壇 蜜はこう詠んだ。父親は瓜類が苦手で「食べた後、喉がイガイガする」という理由でメロンが食卓に登ることがなかった。父親に同調して、食べるとイガイガするんだろうと、すすんでメロンを食べることがなかった子供のころの壇 蜜。

しかしなぜか、メロン味キャラメル、アイスクリームやキャンディー、果汁が1%も入っていないメロンソーダ、とメロン味には執着した。それはイガイガしない、人工的なフレーバーだ。

もう少し大人になるまでの間は、メロンの味といえば人工のあの味だった。

(余談だが、幼少時に買ったもらったアメリカ製の葡萄味のソーダ缶にはImitation grape sodaと大きく書いてあって、その意味を教わり、子供心にアメリカは正直な国だと思った。遠からず撤回することになったが。)

壇 蜜は、現在では体に良くないとか味覚障害になるとか、何かとマイナスイメージでいわれることの多い人工の味を擁護する。「あの人工の味にわれわれは助けられてきたではないか」と。薬、歯磨きペースト、トローチ‥‥。子供には摂取がキツいものも、人工のフルーツ味のおかげでクリアし、助けられてきたと言うのだ。

そして、30代になった今でも、フルーツミックス味の歯磨きペーストを使う。理由は「これで歯磨きを好きになった思い出を大切にしたい」からだと言う。

読者へのサービスっぽい展開なのだが、壇 蜜の壇 蜜にしかわからない、一つの関係性の作り方なのだろう。

干し柿に 「太陽吸い」と あだ名付け

壇 蜜はドライフルーツを「太陽の恵みを受けすぎて思わぬ形態になった食品」とした。生の果実よりも強い甘味と高い栄養価をもち、しっかりした歯応えがあること、そして手間の割には比較的安価であることも賞賛していた。

しかし、個別包装された干し柿に出会い、その「生」の柿の5倍以上の値段で存在する「高級っぷり」に驚愕する。きっとあのしわしわの内側には「有意義な非日常」がつまっているのだろうと想像し、『干し柿様』と呼んでしまう。あまりの高額にドライフルーツの位置付けが崩壊する。

偶然入手した、個包装されていない地域ブランド干し柿を『干し柿大臣』と名づける。『干し柿様』の貫禄は持っていないが高級ではあるからだ。それを口にした衝撃をこう書いている。

「干し柿大臣のくすんだオレンジ色の外皮はうっすらと湿り気を帯びており、手触りはぷよんと柔らかい。かじるとクリーム状の内部が口内に侵入してくる。」

壇 蜜は「大臣クラスでこの豊かな食レポが実現するという素材力」に寒気すら覚えることになる。そして最上位の『干し柿様』を自宅に招く日を夢想する。その日に『干し柿様』の味の恩恵にあずかれるように「舌(下?)準備」をして。

イラストには「ドライフルーツとミイラは似ている」と手書きで添えてある。
「燦々と降り注ぐ太陽の恵。適度の乾燥具合が必要。カビが大敵。手間がかかるの、すごく。」とメモ書きを加えて。

自分は、壇 蜜のこういう命名力による「関係性の捉え方」に惹かれる。そして、痛々しくも思えるほどの言葉のサービス精神にも。


酒/牛乳/納豆/マーガリン/ふりかけ/水羊羹/ピザ/アイスクリーム/パクチー/オクラ/ゼリー/スルメ/喫茶店/水/まんじゅう/カレー/ラムネ/ハチミツ・レモン/メロン/チョコクッキー/半熟・半生・半発酵/サンマ/リンゴ飴/他人の家の料理/パーティー料理/魚肉ソーセージ/練り物/氷砂糖/代償クッキング/アメリカンチェリー/干し柿/おつとめ品/エナジーフード/4P(パフェ、プリン、ポップコーン、パンケーキ)/駄菓子/田麩/クッキー/グミ/のど飴/ジャム/クレープ/赤飯/漬け物/ココア/お金がない時の食事/トッピング/生ハム/マイタケ/ラムネ菓子/黒酢/弁当パスタ

取り上げたものは、ほとんどの人が「共存」してきものだ。これらと向き合い、またはちょっと横に置き、自分の中の歴史や思い出などと重ね、2年以上にわたって壇 蜜は連載を続けた。

書くことは好きかと聞かれるのと同じくらい、食べるのは好きかという質問は困ると壇 蜜は本書の前書きで書いている。どちらも仕事の一環なので好きも嫌いもない。書くことは生きる手段、食べることも生きる手段で生活の一環と言う。

このエッセイは、消去法による消極的テーマ選びで「食べ物」に辿り着いたところから始まっている。壇 蜜は秋田生まれとして知られているが、世田谷育ちで大学の附属小学校から大学まで一貫して女子校で過ごした。10代の頃にはティラミス、パンナコッタが大流行した世代だ。そして、服部栄養専門学校で調理師免許を取得しているにも関わらず食べ物に対する情熱が低い

じゃあ、嫌イヤ書いたのか?いや、好きも嫌いもないので嫌イヤではない。作家と同じで仕事なのだ。楽しくて楽しくて小説やエッセイををすらすら書く作家は少ないと思う。そういう意味では作家仕事なのだ。そして、素人として文章を書いているつもりがないことは、あとがきから読み取れる。

この本は初めに書いたように「食べ物と自分の関係」を書いているだけだ。しかし見方によっては、精神科医がカウンセリングにおいて、患者だけではなく自分の心の動きも記録するように書いたのではと思ってしまう。普通は公開しない記録だ。相手はスルメや納豆、魚肉ソーセージなのだが。

普通は公開しないことを公開する、晒す、というのは壇 蜜が仕事として選んでしまったことでもある。壇 蜜は自分を見つめる側のファンやメディアと「共存」という意識で生きてきたような気がする。「それぞれ存在する事情があるのだから(好き嫌いは置いておいて)共存しようじゃないか」と。

2023年、この連載エッセイをまとめた本が出版されてから5年になる。幽体離脱して自分を客観視をしているかのように、メディアとの立ち位置を推測って「共存」しようとしていたのではと思われた壇 蜜が、突然の休養を経てラジオ番組に復帰したと聞いた。

心が身体に戻ってきたようなので安心している。自分にとっては貴重な文筆家であり「言葉」の人だから。

WRITER Joji Itaya

出版にたずさわることから社会に出て、映像も含めた電子メディア、ネットメディア、そして人が集まる店舗もそのひとつとして、さまざまなメディアに関わって来ました。しかしメディアというものは良いものも悪いものも伝達していきます。 そして「食」は最終系で人の原点のメディアだと思います。人と人の間に歴史を伝え、国境や民族を超えた部分を違いも含めて理解することができるのが「食」というメディアです。それは伝達手段であり、情報そのものです。誰かだけの利益のためにあってはいけない、誰もが正しく受け取り理解できなければならないものです。この壮大で終わることのない「食」という情報を実体験を通してどうやって伝えて行くか。新しい視点を持ったクリエーターたちを中心に丁寧にカタチにして行きたいと思います。