年末特別編として今回は映画でなく、太宰治の短編小説『メリイクリスマス』をご紹介したい。
クリスマスといえば、七面鳥、ローストビーフ、クリスマスケーキ、ケンタッキーフライドチキンという人も日本では多いかもしれない。しかし、太宰のクリスマスストーリーに登場する食べ物は、なんと鰻。それも屋台で食べるスタイルである。
今年は太宰治生誕110周年に当たる為、太宰に纏わるイベントも多く催され、太宰の半生が映画化されたりもした。その一つ、蜷川実花監督の「人間失格」にも描かれている通り、太宰治といえば小説よりも本人の女性関係や度重なる自殺未遂、薬物中毒、最期は愛人と入水心中したというスキャンダラスで自堕落、破滅型のどうしようもない男というイメージが先走り、毛嫌いされている気がしてならない。
もちろん、どうしようもない男であり、自伝的小説と言われる「人間失格」などを読むと鬱々と心が沈むのだが、太宰の文章には暗い中にもユーモアがあり、はにかんだ優しさがあり、諦めの中にも一筋の希望が見えるのだ。少なくとも、多感な時期に雪国青森で鈍色の時代を過ごした、私のような人間にとっては。
さて物語に戻ると、終戦間もない暮れの東京の街に、青森の生家より戻って来たばかりの主人公の笠井(太宰自身と思われる)は、立ち寄った書店で偶然若い娘と再会する。その娘の母は笠井にとって恋愛関係にならぬ“唯一のひと”であり、笠井は以前よくこの母娘の家へ酒を呑みに出入りしていた。
ちなみに再会した書店で若い娘が探していた「アリエル」という本は、イングランドのロマン派詩人パーシー・ビッシュ・シェリーの生涯を綴った小説的伝記であり、このシェリーもまた太宰のようにスキャンダラスで奔放な恋愛と短い人生を駆け抜けた人である。
シェリーの妻はあの「フランケンシュタイン」の生みの親であるメアリー・シェリー。彼女の半生を描きエル・ファニングがメアリーを見事に演じた映画「メアリーの総て」も良作なので、ぜひ一度ご覧あれ。
美しく成長した娘と再会した笠井は、娘の案内で母娘の住む長屋へと向かうのだが、道中母の話をする度に無口に俯く娘を見て、笠井は娘が自分に好意を持ち母に嫉妬していると勘違いする。歩きながらどんどんあらぬ妄想を膨らませる笠井。その様子があまりに滑稽で生々しく笑ってしまう。しかし笑いの後には思わぬ悲劇が待っていた。“唯一のひと”であるそのひとは広島の原爆で命を落としていたのだ。それゆえ娘は無口に俯き、終いに笠井の前で泣き出してしまう。
娘を気遣うように部屋には入らず、そのまま駅近くの盛り場にやって来た二人は、笠井馴じみの鰻屋の屋台に入る。そこで注文したものが鰻の小串と日本酒である。この鰻屋というのは、実際に当時三鷹駅前に屋台を出し、太宰が大変贔屓にしていた若松屋という店で、現在も国分寺に店を構えている。
太宰は自分の原稿料をこの店に預けさせていた程、先代のご主人と信頼関係にあったのだそう。笠井が注文した鰻の小串というのは、鰻の蒲焼の小さいものを指す。蒲焼の大きさにより小串、中串、大串と分けられていたようだ。
笠井は鰻の小串を3皿、お酒をコップで3杯それぞれ頼み、不思議そうな顔をしている主人に「このひとと僕のあいだに、もうひとり、心配そうな顔をしたべっぴんさんがいるじゃねえか。」と笑ってみせる。それから笠井と娘は一言も喋らぬまま、出された鰻の小串とお酒、笠井が懐から出した南京豆を肩を並べて口に入れる。
暫くしてその静けさと哀しみを破るように、屋台の奥にいたほろ酔いの紳士が外を歩くアメリカの兵士に向かい大声で「ハロー、メリイ、クリスマアス」と叫び、笠井は思わず噴き出してしまう。そうして「この鰻も食べちゃおうか」と真ん中に取り残されていた皿にも箸をつけ、娘も「ええ。半分づつ。」と答え、この物語は幕を閉じる。
どこを切り取っても常に美しく、繊細で洗練された川端康成の文章を懐石料理に例えるならば、太宰治の文章は非常に人間臭く、人生の悲喜交々を丸ごと飲み込む大衆酒場の料理のような味わいがある。この『メリイクリスマス』の短編からは、そんな太宰らしさがひしひしと伝わってくる。
実は、物語に登場する母娘にはモデルが存在する。娘のモデルとなった林聖子さんは、新宿で「風紋」という文壇バーを昭和35年よりお一人で営まれ、御年90歳を迎えられた昨年、多くの作家や編集者らに惜しまれつつ、店の57年の歴史に幕を下ろされた。
聖子さん曰く、終戦翌年の11月に三鷹駅前の書店で太宰と偶然再会し、それから半月程経ったある日、母娘の住む長屋を太宰がふいに訪ね「お母さんと聖子ちゃんへのクリスマスプレゼントだよ」と懐から取り出したもの。それこそが『メリイクリスマス』の小説だった。
物語の中で実際生きている人物を勝手に死なせるなんて酷い話だが、それでもこの物語はまだ戦争の傷跡残るこの国の人々の心に、何か温かなものを残したのではないかと私は思う。それは、作家太宰治らしい無骨な愛情表現であったのかもしれない。
これまで太宰タイプの男に散々振り回されて来た私であるが、もし自分をモデルにこんな素敵な小説を贈られたら「しょうもないな」と思いつつ、やっぱり惚れずにはいられないだろう。
text:Mari Takahashi
(本稿はOPENSAUCE元メンバー在籍中の投稿記事です)
illustration: Hitoshi Miyata