2026.06.02

坂本葵「食魔 谷崎潤一郎」【私の食のオススメ本】

  • 書名:「食魔 谷崎潤一郎」
  • 著者:坂本葵
  • 発行所:新潮新書
  • 発行年:2016年

20年ほど前、ある地方都市に仕事で住んでいたころ知り合った女性の料理研究家がいた。若いシングルマザーで美人だったが、めっぽう酒が強く、谷崎文学をこよなく愛していた。

彼女は、その土地と東京を行ったり来たりで仕事をしていたが、上京して会社を成功させ、いまでは、テレビでもちょくちょく見かけるようになった。

いつの間にか、谷崎と聞けば彼女が思い浮かぶようになった。料理に関わる仕事をしている人で「谷崎が好き」という人にあったのはこれまで彼女だけだった。(そう言えば、料理人から好きな本を聞いたことがない。バーテンダーは自分から言ってくる人多いなあ)

本書を読んで、彼女が魅了されている世界の一旦がわかったような気がした。というより、彼女のことがわかったような気がした。谷崎文学を読み漁ったということもなく、映画化作品で知った方が多いので、思い込みではあるのだが。

そして、この歳になり、改めて「谷崎」にトライしてみようと思わせたのも本書である。むしろこの年で読んだ方が理解できるかもしれないと、いいように思ったりしている。(時間がないので急がないと)

著者、坂本葵がこの本を出版したのは、東大の大学院を出て、非常勤講師をしていた2014年に『吉祥寺の百日恋』で作家デビューをした2年後。書いていたのは32、3歳の頃だと思われる。後書きでタイトルの「食魔」ということばを流行らせようという、お茶目な意図も見えて若さを感じるのだが、その分析力と筆力は見事としか言いようがない。

そういえば坂本葵は、谷崎の後輩にもなるのだ。谷崎は小学生の時に父親の身代が傾き、住み込みで中学に通い、高校は一旦退学し飛び級で卒業して第一高等学校へ。学年トップとなった。その後東京帝大へ入るのだが学費未納で中退。ここで彼の才能に目をつけたのが永井荷風であった。秀才であったことは確かだ。

さて、坂本葵による『食魔 谷崎潤一郎』は、「料理は藝術。美食は思想」を哲学とした文豪・谷崎潤一郎の生涯と文学を、「食」の観点から紐解くというこれまでにありそうでいて、誰もなしえなかった仕事だ。

本書では、「三日に一遍は美食をしないと仕事が手につかない。美食は僕の日常生活に必須条件となっているのだ」と公言した谷崎の、江戸前の粋料理からハイカラな洋食、京都の割烹、中華のエキゾチシズムまでを堪能する「食魔」としての遍歴が紹介されている。(谷崎は「食魔」と自称した)

坂本葵は、食欲と性欲の融合という点で、「悪い女ほどよく食べる」「蒟蒻とサドマゾ」といった斬新なアングルから、谷崎作品に登場する官能性や「人間の業」と食の描写の結びつきを分析し、作品にみる美食の描写という点では『痴人の愛』や『細雪』などに描かれた、食のディテールやグルメ遍歴。単なる空腹を満たすものではない、芸術としての食の哲学を語っていく。

三島由紀夫は
「氏の小説作品は、何よりもまづ、美味しいのである。支那料理のやうに、フランス料理のやうに。凝りに凝った調理の上に、手間と時間を惜しまずに作ったソースがかかってをり、ふだんは食卓に上がらない珍奇な材料が賞味され、栄養も豊富で、人を陶酔と恍惚の果てのニルヴァナへ誘い込み、生の喜びと生の憂鬱、活力と退廃とを同時に提供し、しかも大根のところで、大生活人としての常識の根底をおびやかさない」
と河出書房新社の谷崎の全集の解説として書いている。これが友人の料理研究家を魅了している谷崎文学なのだろうと思った。

本書で知った谷崎の美食。これで谷崎文学への再トライを考えたのだが、それは、「美食の味は色気やお洒落をそっちのけにして、牛飲馬食をするところにあるのだ(大正13年「洋食の話」)」という文章。

谷崎の美食は「食い意地」なのだ。
住み込みの家庭教師(書生)をしながら中学に通っていた時の、住んでいた一家(贅沢極まりない食生活だったらしい)と自分の貧相な食事の差に対する恨みが一生続いたようだ。

住み込みの一家とは「築地西洋軒」を経営する北村家であった。
そこで「食い意地」の芽が生まれ、文学の才能とともに美食の追求とまでになったのだろう。

牛飲馬食とは言っても、谷崎は食の本質、美しさを徹底して追求したことは間違いない。本書には谷崎が愛した名店も紹介されている。
「京都 たん熊北店」「京都 瓢亭」「京都 鳥居本」「銀閣寺 山月」「東京 本店浜作」

谷崎は作品ごとにそのスタイルを変えている。だから本人像は見えてこない。よく出ている写真から想像するしかなかったのだが、様々なエピソードから谷崎と美食とは何かを知るには、ぜひ本書を読んでもらいたい。

ところで、谷崎文学で唯一料理のレシピが出てくるのが『陰翳礼讃』だが、この吉野の山の伝統的な押し寿司「柿の葉鮨」のレシピが付録でついている。きっと、著者のグルマン感が掲載せずにはいられなかったのだろう。レシピはあるがなかなか手強いので、奈良県へ行って「吉野柿の葉鮨」の総本家、老舗『平宗』に行くのが良いだろう。

WRITER Joji Itaya

出版にたずさわることから社会に出て、映像も含めた電子メディア、ネットメディア、そして人が集まる店舗もそのひとつとして、さまざまなメディアに関わって来ました。しかしメディアというものは良いものも悪いものも伝達していきます。 そして「食」は最終系で人の原点のメディアだと思います。人と人の間に歴史を伝え、国境や民族を超えた部分を違いも含めて理解することができるのが「食」というメディアです。それは伝達手段であり、情報そのものです。誰かだけの利益のためにあってはいけない、誰もが正しく受け取り理解できなければならないものです。この壮大で終わることのない「食」という情報を実体験を通してどうやって伝えて行くか。新しい視点を持ったクリエーターたちを中心に丁寧にカタチにして行きたいと思います。