
- 書名:「台湾漫遊鉄道のふたり」
- 著者:楊 双子(ようふたご)
- 発行所:中央公論新社
- 発行年:2023年初版 2025年7版
まず、この本を読むには1895年(明治28年)の日清戦争後の下関条約から、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結まで大日本帝国が台湾を植民地として支配したという歴史をウイキペディアでよいのでおさらいしておくべきだろう。戦後81年も経ったのだ。
自分もその期間が50年もあったことを覚えていなかった。いや、知らなかった。
知っての通り、この期間は日本が台湾にインフラや産業の発展をもたらした近代化の側面があるのと同時に、専制的な搾取・同化政策の側面という二つの重要な歴史的側面を持っている。
本書は、その50年にわたる日本の統治下の昭和13年(1938)の5月から14年(1939)の台湾を、内地の作家として台湾各地を講演旅行する日本人女性・青山千鶴子と通訳の台湾女性・王千鶴、千鶴子と千鶴、日台のこのふたりが愛と友情と大食いで駆け抜けるという鉄道小説である。
2024年に全米図書賞の翻訳文学賞を受賞。同じく2024年に第十回日本翻訳大賞を受賞。2026年にはブッカー国際賞(International Booker Prize)英語翻訳版『Taiwan Travelogue』が受賞(台湾文学として初の快挙)。

余談だが(いや、女性と社会ということでは本書にも関わりある背景だとも言える)、昭和13年といえば中田正子(旧姓田中)が初めての女性弁護士になった年でもある。あの朝ドラ『虎に翼』のモデル(内容はフィクション)となった女性である。そして、その脚本を手がけた吉田恵里香氏によってドラマ化されるという。これは日本と台湾の国際共同制作による。当時の台湾の日本的な街並み、列車からの風景など、大規模ロケとVFXを駆使して忠実に再現する大型予算のドラマであるらしい。
しかし、本書の深いところに意味はあるとして、けっして重厚な歴史小説ではない。文体はカジュアルでライトノベル的なのだ。訳者・三浦裕子の文体もだいぶその辺りを意識しているように思う。まあ、つまり読みやすいのである。
そして、主人公ふたりの間から受ける独特な親密さ、その描写は、まるでサブカル界でいう「百合(ゆり)」系を感じさせる。といっても内容は官能小説でもなく、レズビアンのラブストーリーとは違うので誤解なきよう。
作者は「鉄道、美食、百合を愛する歴史小説家として、これらの要素を組み合わせてひとつの迷宮を造り上げ、読む人を台湾という島の昭和時代への旅へと誘おうと試みた」と書いている。
ちなみに「百合」とは、1970年代に男性同性愛者向け雑誌の『薔薇族』の伊藤文学編集長が<薔薇族>の対義語として、女性同性愛者を指す言葉として80年代の成人映画、日活ロマンポルノのタイトルに使われ一般的になったように思う。しかし今では純愛、強い憧れ、ソウルメイトのような関係性も「百合」として扱われ、漫画、アニメ、小説などで広く使われるようになっている。
物語は、女性同士の連帯や絆、支え合いを意味する概念、「シスターフッド」が二人の間に生まれ、それがどういう結末をもたらすのかを知りたいと思わせる。(そう言えば、先に書いた『虎に翼』もシスターフッドが根底に流れていたように思う。破滅的なものとしては1991年の映画『テルマ&ルイーズ』もそうだ。)
もちろん、食への飽くなき追求の旅へ読者は同行できるのは最高の読みどころでもある(この場面については書ききれないので本書を読んで楽しんで欲しい)。
さて、本書を書いた作家、楊 双子(よう ふたご/ヤン シュアンズ)だが、小説家、大衆文学・サブカルチャー(研究領域は日本のアニメ、漫画、コンピューターゲームの文化を反映した2次元コンテンツ)研究者であり、本名は楊 若慈(ヤン ルオツー)といい、もともとは双子の妹である楊 若暉(ヤン ルオフイ2015年6月死去)とのの共同名義である。若暉は日本統治時代の歴史研究していたこともあり、日本語で双生児を表す「双子」を使ったようだ。
先に述べた<ラノベ>的ということだが、原文は見ていないが、台湾文学の日本人研究者も「作者は日本のラノベや中高生向けの恋愛小説を研究しており、創作にその文法をあえて取り入れている」と言っているらしい。といったところから正確な台日の文化と時代背景のデータを元に、大衆文学的路線を意識して本書は書かれたたと言ってもいい。
著者が執筆したのは、刊行が2020年なので30代前半だと思われる。重厚になりがちな世界をアニメの三等身キャラがが出てきそうな場面(個人的な見解)もあるのはそういうことか。
そしてこの作品は、小説の中で小説を発表するという複雑な虚構の世界で描かれている。それは展開の自由なアニメ的であり、それをライトノベル<ラノベ>化したような緻密な計算によって、台湾の文壇や政治の界隈をケムに巻いている、もしくは改革を要求しているようにも思われる。
主人公のひとり、作家、青山千鶴子は結婚から逃げている(結婚するとなれば相手は男性である。そのこともあるか?)。そして千鶴子がもっとも興味をもって行動に及ぶのが食事であり料理だ。いまでいうご当地のグルメである。千鶴子の食欲は無限であり止まることはない。家族は彼女を「大食いの妖怪」と呼んでいる。
もう一人の主人公、女学生のように幼く映る本島人の通訳、王千鶴は千鶴子のこの旅を全面的に支えて寄り添う。千鶴子は本島人向けの日本語での教育をする公学校の国語教員だ。しかし中身は、台湾の歴史文化に長けた知識を持ち、西洋料理やテーブルマナーにも詳しく、料理も上手い。
そんな二人の物語は「虚構」である。小説の中に小説がある。作者は、日本小説的な<註釈>などもつけ(日本版では日本についての註釈は外し台湾のことのみ)さまざまなところでトリッキーに迷宮を創り上げていく。現代の読者を虚構で描かれる時代へ引き摺り込んで、迷わせ<今>を考えさせる意図なのだろう。
角田光代は日本版の帯に「統治、差別、そして対等とは?ずどんと心に響いて最後まで目が離せない」と書いている。
同じく川本三郎は「食と鉄道の楽しかった旅に一転して亀裂が生じるところが、この小説の重要な核になっていく」と。
<ラノベ>的なのに、である。それが世界に響いたのかもしれない。
そして、日本語版あとがきで作者は語っている。
「小説の中で描いたトンネル、鉄道、建築、自然の景観などの風景の多くは、時の流れと共に失われ、今では当時の姿は見ることができません。今日の読者に、文章を過去の風景に思いを馳せてもらいたく選んだのです」
「一方、食べ物についてはその逆で、小説に登場させたほぼすべての食べ物は、現代の台湾でも味わえるものを選んでいます」
われわれは、飲食が文化の縮図であることは世界共通でることは知っている。 作者は作品の中の食べ物も、失われた風景のように文字の記憶だけのものになってしまうかもしれないと言う。
本書を読めば、そうなる前に台湾を旅せねば、と思わずにはいられないのである。ただ、その時は、失ったもの、失っていくものについて考えざるをえないことを覚悟して。
追記:作者の楊は、国際ブッカー賞の受賞スピーチでこう言ったと聞く。「台湾人は植民地支配を経験し、侵略の脅威に直面してきた」と。その上で、台湾文学を現在の地政学的状況に向き合う日々の生きる活動としていると。
出版にたずさわることから社会に出て、映像も含めた電子メディア、ネットメディア、そして人が集まる店舗もそのひとつとして、さまざまなメディアに関わって来ました。しかしメディアというものは良いものも悪いものも伝達していきます。 そして「食」は最終系で人の原点のメディアだと思います。人と人の間に歴史を伝え、国境や民族を超えた部分を違いも含めて理解することができるのが「食」というメディアです。それは伝達手段であり、情報そのものです。誰かだけの利益のためにあってはいけない、誰もが正しく受け取り理解できなければならないものです。この壮大で終わることのない「食」という情報を実体験を通してどうやって伝えて行くか。新しい視点を持ったクリエーターたちを中心に丁寧にカタチにして行きたいと思います。