2020.08.19

金のなる木のあったころ
チョコのお話 第三夜(サド侯爵の黒い悪魔編)

カカオの実の中身

第一夜 / 第二夜 はこちら

時代は17世紀、ルイ14世時代のフランスへ。

途中を飛ばしたのはなぜかというと、チョコレートの経路がよくわからないからである。

大体のものは、いつ、どうやって来たのかなんてわからない。

しかし、ルイ14世の時代には、フランスにチョコレートが入ってきているのは間違いない。

Louis XIV (1638 – 1715)

ルイ14世って誰よという話だが、ハイヒールにタイツを履いた太腿をドヤ顔で見せ付けている肖像画で有名な、あの身長159センチのオジサンである。

ヴェルサイユ宮殿を造るように指示したのもこのルイ14世。

後々まで続く財政逼迫の原因を作った根源でありながらも、バロック文化の頂点、ブルボン王朝の最盛期の王である。

彼を支えていた敏腕宰相のマゼラン枢機卿という人物がいるのだが、彼がフランスにチョコレートを、フランス語っぽくいうと「ショコラ」を持ち込んだ最初の人物ではないかと最も有力視されている。

このチョコは、イタリアを経由してやってきた。当時のイタリア、特にメディチ家のトスカーナ大公国の宮廷ではチョコレートが大人気だったのである。

今まで修道院で断食か否かでモメながらモソモソと飲まれていたものを、放漫経営どんと来いで美食と暴飲暴食で財政逼迫をさせたとまでいわれるコジモ3世が君臨するイタリアで、チョコは更なる進化を遂げていった。

それは、チョコにフレーバーをつけたことである。トスカーナ大公国では、レモンやジャスミンなどのフレーバをつけることで、さらにチョコレートのバリエーションを広げ、クオリティーを向上させ、「美味しいおクスリ」になっていた。(しかし当時バニラは健康に良くないと思われており、バニラフレーバーには否定的な意見が多かった)

さて、太陽王ルイ14世治世の初期を支えたこの名宰相マゼランだが、本名はジュリオ・マッツァリーノ。名前からわかるようにどこからどう見ても、イタリア人である。

キリスト教界隈でチョコレート論争があったこの時代。聖職者ならば賛否はあれど、誰もがチョコのことをよく知っていた。

マゼランは聖職者出身だったからチョコのことは熟知していたし、チョコレートの先端地域イタリアからチョコレートのレシピを持ったチョコ調合師を連れてきていたといわれている。彼はもともと腎臓が悪かったので、その薬としての意味合いも強かった。

しかしイタリアのチョコはカカオの焙煎が深いので苦味が強く、フランスの宮廷ではあまり美味しいものとは受け止められなかったようだ。

外国ヨメの密かな愉しみ

ルイ14世はスペイン王家のマリー・テレーズ・ドートリッシュという女性と結婚する。

Marie Thérèse d'Autriche
Marie Thérèse d’Autriche (1638 – 1683)

マリーのスペイン訛りのフランス語が嫌われたのか、なにが悪かったのか夫のルイ14世に疎まれ続けた。それでも彼女が亡くなると夫ルイ14世は号泣したというから、このあたりの男女の機微はちょっと私にはよくわからない。

そんな彼女の楽しみは、夫に隠れてスペインから連れてきた女官たちとチョコをキメることだった。マリーは結婚に際して、マリーの実家のスペイン・ハプスブルグ家からチョコレート調合師を連れてきたと言われている。

スペインはチョコをヨーロッパにもたらしたチョコ先進国だったが、まだマリーが嫁いで来た当初のフランスでは「チョコをキメるなんてはしたない」と思われていた。

それも次第に変わっていき、ヴェルサイユ宮殿では王の謁見を待っている時や公式行事のときには、居酒屋の2時間コースの如く「ショコラッテ(チョコレート)飲み放題」になっていたのである。

それでもまだ薬用としての位置づけが強く、チョコレートの評価は薬用か毒かという医学の新説によって左右されていた。

時として、チョコを飲んだために子供がチョコレートのように真っ黒な子供が生まれてきた、という俗説が広まったりもしたが、この時代を通じて、概ねのフランス人貴族は消化作用があると信じてチョコレートを愛飲していたのだ。

※ ちなみにこのルイ14世王妃マリーは、叔母である同じスペイン・ハプスブルグ家出身でルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュと混同されることが多いが、チョコレートが「流行した」と記録上いえるのは、ルイ14世王妃のマリーの時代である。

変態的チョコレート・フリーク、マルキ・ド・サド侯爵

Marquis de Sade
Marquis de Sade (1740-1814)

フランスきっての危険な男、その名をマルキ・ド・サド侯爵という。

SMのサド、マゾのサドの語源は彼の名前に由来している。

日本でも澁澤龍彦が彼の著の『悪徳の栄え』を翻訳したところ、国家からわいせつ書として起訴されて澁澤龍彦が有罪判決を受けてしまうという、国民の表現の自由が国家によって著しく侵害されたことで有名な判例「悪徳の栄え事件」の元本を書いた人物である。

マルキ・ド・サド侯爵の本は、昭和に入ってさえ、この扱いなのだからどれだけ当時は危険人物だったかお分かり頂けるだろう。

フランス革命、ナポレオン治世を牢獄に出たり入ったりしながら生き残るのだが、サド侯爵はフランス史上屈指のチョコレート・フリークだった。

フランス革命前後の頃には既にチョコレートは嗜好品としてのクオリティを高め、ボンボン(パスティーユ)はあるわ、チョコレートの中にアーモンドが入ったものはあるわ、チョコアイスも既に作られていた。この短期間で飲むチョコレートから食べるチョコレートへと変わっていったのだ。

「パンがないならお菓子を食べれば?」(本当は言っていないのだが)で知られるマリー・アントワネットはとても粗末な食べ物しか食べていなかった。そんな彼女の朝ごはんはコーヒーかチョコレートだけだったのだ。

さて、マルキ・ド・サドのチョコレートは、マリー・アントワネットとはレベルが違う。

彼のチョコ好きは当時にでも有名で、サド侯爵の舞踏会で出されたチョコレート・ボンボンに媚薬が仕込まれていて、それを口にした参加者達はその後(21字伏字)と、まことしやかにウワサされるほどだった。

サド侯爵の伝記によれば、サド侯爵は牢獄の中から妻に

  • チョコクリーム
  • チョコレート・ボンボン(大量)
  • チョコクッキー
  • 板チョコ
  • カカオバター(座薬として)
  • チョコレートケーキ

を持ってきてくれるように何度も頼んでいるのが散見される。

サド侯爵(獄中)のティータイムは夕方5時と決まっていた。

妻のルネにわざわざティータイム用のお菓子を牢獄にまで運ばせていたのだが、中でもサド侯爵のチョコレートケーキへのこだわりは異常だった。

筑摩書房から出ている澁澤龍彦の『サド侯爵の手紙』によれば、サド侯爵は、

「スポンジ・ケーキは私が要求したものと違う。第一に、私はビスケットのそれと同じ砂糖の衣が、上にも下にも、まわり中についているやつを要求したのだ。
第二に、私は中にチョコレートがはいっているやつを要求したのだ。チョコレートはほんのちょっぴりもありやしない。植物の汁で光らせてはあるが、チョコレートと言えるようなものは、それこそ、ほんのちょっぴりも使ってない。
今度送ってくれる時は、そういうやつを作らせ、誰か信用の置ける者に、中にチョコレートが入っているかどうかをしらべさせるようにしてほしい。スポンジ・ケーキは板チョコを噛んだ時のように、ぷんとチョコレートの匂いがしなければいけないのだ」

と、言っている。ちなみにビスケットと訳されているが、これはビスキュイ・ド・サヴォワ (Biscuit de Savoie)というもので、パリっとした食感のビスケットとは違い、王冠型の型に入れて焼いたふわっとしたお菓子である。

三島由紀夫の『サド侯爵夫人』という戯曲でも、出獄したサド侯爵は醜く肥満した姿で描かれる。実際、サド侯爵は肥満体だったというし、後に失明していることから考えると糖尿病を患ったのかもしれない。

運動のない牢獄で毎日こんなものを食べていたら、そうなるのは当然のことだ。

悪魔と呼ばれしサド侯爵も、甘い甘い黒い悪魔にはかなわなかったとみえる。

photo: Sena Kaneko

私は、だいたい数日に一食しか食べない。一ヶ月に一食のときもある。宗教上の理由でも、ストイックなポリシーでもなく、ただなんとなく食べたい時に食べるとこのサイクルになってしまう。だから私は食に対して真剣である。久々の一食を「適当」に食べてなるものか。久々の食事が卵かけ御飯だとしよう。先に白身と醤油とを御飯にしっかりまぜて、御飯をふかふかにしてから器によそって、上に黄身を落とす。このときに醤油がちょっと強いかなというぐらいの加減がちょうどいい。醤油の味わい、黄身のコク、御飯の甘さ。複雑にして鮮烈な味わいの粒子群は、腹を空かせた者の頭上に降りそそがれる神からの贈物である。自然と口から出るのは、「ありがたい」の一言。