2024.01.23

桜井筦子「79歳、食べて飲んで笑って」
【私の食のオススメ本】

  • 書名:79歳、食べて飲んで笑って
  • 著者:桜井筦子
  • 発行所:産業編集センター
  • 発行年:2023年

副題が「人生で大切なことは、みんな料理に教わった」である。この本を読んでみると「料理とその周辺」ということなんだろうと思う。つまり人生の中心は料理にあったということだ。

著者の青山『PAROLE』店主、桜井筦子(えみこ)さんは還暦で引退して悠々自適で暮らしていたが70歳を過ぎて改めて店を始めた。この本には娘の弁当に入れていた惣菜を含む彼女のお店に出している料理のレシピが載っている。

家でこんな料理を出したら呼んだ友達たちは喜んでくれるだろうなという料理が掲載されている。それとは真逆に、そんな話を聞いてしまっていいのかという赤裸々な人生があっけらかんと綴られている。

1943年に満州で生まれた筦子さんの父親は当時「満州映画協会」の商業デザイナーだった。東京府では野草や野菜の川などで作った雑炊を食べていた時代だという。戦後引き上げてきた埼玉で筦子さんの食いしん坊生活が始まる。

母親のつくるドーナッツや干して揚げた餅。父親の散歩について行くと浦和駅前のフルーツパーラーでパフェを食べさせてもらう。自宅で商業デザインの仕事をしていた父親のアシストや仕事関係者のために母親は食事の準備をした。筦子さんの料理の原点はこの母の味にあったようだ。

現在も母親が残したレシピ帳が手元にあるという。舌で覚えているのでじっくり読み返すことはなかったが、材料のない時代に工夫して美味しいものを食べさせようとしていた母親の心遣いを感じるという。

ジャズ喫茶やパーティーで遊び呆けた中高時代を経てすぐ、筦子さんはお見合いを蹴って、亀倉雄策原弘田中一光山城隆一が中心になって設立された「日本デザインセンター」の受付嬢となる。

1963年頃、十代だったセンター時代。流行より早くミニスカートを履き六本木で遊び、芸能人や流行に敏感な若者が集まる飯倉のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りするようになっていた。前菜を数品乗せてやってくるワゴンから好きなものを選び、その頃珍しかった魚介のマリネや仔牛のステーキ、バジリコ(パスタ)を食べていたのだ。そんな若者は加賀まりこくらいしかいない、と思ったが筦子さんとほぼ同年齢。二人は同じ場所にいたはずだ。

その後、デザイナー、イラストレーターの宇野亜喜良氏や横尾忠則氏らが独立して作った事務所に移り、その会社も解散し、宇野氏の事務所に。そして宇野氏と恋に落ちる。不倫である。その恋が終わった後に筦子さんは後に始める「パロル」の前身のようなお店をオープンする。エメラルドピラフ、パスタ、スープ、軽食を出した。

オーブンでパラっと炊いたピラフにベシャメルソースを乗せたパロルのエメラルドピラフ

その後、アメリカから帰ってきて、アートディレクター長友啓典氏とK2というデザイン会社を作ったイラストレーターの黒田征太郎氏の熱烈なプロポーズを受ける。黒田さんが既婚者だったため、すったもんだの上、結婚。その後、黒田さんの不貞が続き自立するために動いていくことに。

実は、一度この辺まで読んで、ため息が出てしまった。こんな思いでレシピ本を読むのは初めてだ。若い時、実名が出た方々のところに原稿をもらったりチェックに伺っていた。特にK2のお二人にはお世話になった。長友さんには六本木の事務所のそばの大人のバーに連れて行っていただいたり、黒田さんには深夜の新宿ゴールデン街で、時折ご馳走してもらった。黒田さんが家に帰らずにいる頃、もしかして自分が飲ませてもらっている時、筦子さんはこんな風に思いながら生きていたんだということをこの歳で、レシピの本で知るとは。

しかし現在は、筦子さんと宇野亜喜良氏や黒田征太郎氏とは親しくされているので実名を出すことは許可を得ておられるのだろう。お互い、寛容な大人になることは人生の輝きを失わないためにも大事なことだ。

シュウマイの中身をひと塊で蒸したジャンボシュウマイ

筦子さんは1982年に創刊された雑誌「Olive」の料理ページを任される。スタイリストもいない時代、デザイン事務所で働いていたことが撮影に役に立った。演出やコーディネート力が付いていた。きっと、それまでの食体験がいちばんの味方だったのではないだろうか。

さらに筦子さんは、たぶん日本初のNY式ケータリング業を始め、忙しくなり1983年に会社を起こす。NYで流行しているケータリングが面白いと教えたのはマガジンハウスで雑誌ポパイを生み出した木滑義久氏(現会長)。日本ではまだテーブルコーディネートやイベント内容に合わせた演出含んだケータリングビジネスはなかった。

1988年に離婚が成立。90年代になると筦子さんの会社「パロル」は、トム・フォード率いるグッチのパーティーや料理バラエティ番組のメニュー案を手がけるまでになった。そして、そのオフィスのあるビルの空いた階に最初の店を開くのである。そこはこの本のレシピが生まれる最初の場となった。

還暦を機に筦子さんはリタイアし、伊豆に引っ越し田舎暮らしをしながら料理教室やっていたが、お付き合いしていた男性との食生活に対する考え方が相入れず家を出て東京に戻ることに。60歳になったらリタイアしなきゃと思い込んでいた自分は「らしくない」とお店を始めようとしたがお金は使い切っていた。そんな時、20年昔にケータリングのアルバイトをしてくれていた男の子が資金を提供してくれることに。

筦子さんは、71歳にして青山に「のみやパロル」をオープン。お出汁を大切にした和食を提供する。看板は元夫、黒田征太郎氏の手描き。30年来の仲間あみさんに、ナチュールワインの仕入れを担当する娘の海音子さんも加わりお店を営んでいる。

紹介されているレシピ。
チャプスイ/ジャンボシューマイ/ねぎま汁/和風シチュー/ザーサイと豚肉炒め/エメラルドピラフ/ミニオムレツ/タコス/ジャガイモと鶏団子/アジの南蛮漬け

思い立ったら行動の筦子さんと慎重派の盟友あみさん。
本書を読んで店は人間がつくることを再確認。

波瀾万丈だろうが、自分の人生を楽しみたければ食べることを疎かにしてはいけない。

WRITER Joji Itaya

出版にたずさわることから社会に出て、映像も含めた電子メディア、ネットメディア、そして人が集まる店舗もそのひとつとして、さまざまなメディアに関わって来ました。しかしメディアというものは良いものも悪いものも伝達していきます。 そして「食」は最終系で人の原点のメディアだと思います。人と人の間に歴史を伝え、国境や民族を超えた部分を違いも含めて理解することができるのが「食」というメディアです。それは伝達手段であり、情報そのものです。誰かだけの利益のためにあってはいけない、誰もが正しく受け取り理解できなければならないものです。この壮大で終わることのない「食」という情報を実体験を通してどうやって伝えて行くか。新しい視点を持ったクリエーターたちを中心に丁寧にカタチにして行きたいと思います。