2019.04.09

和食に見るそもそも旬論 「春」マグロのこと 前編 マグロを食べ始めたのはいつ?

日本の伝統的マグロ漁

2019年冬に行なわれた「春の旬のもの」についての対談です。

マグロの立場を斜めから考える

そもそも「旬」てなんだろう、から始まった企画です。とりあえずは季節の食材をテーマに話しが始まります。行き先不明のトーク旅の中に日本の食の歴史、農の歴史や意外な真実が飛び出します。「季節」を食べる日本人とはいったい…?

そして私たちはなんのために「食べる」のでしょう?そんなことを軽ーく、深ーく一緒に考えてみませんか。和食の面白さを伝えに世界を飛びまわる料理人・髙木慎一朗と史実をジャンルを超えてつなぎ合わせる歴史学者・三石晃生の季節と食にまつわる<ゆらぎトーク>第一回・前編です。

加賀料理とメジマグロのポジション

メジマグロについて語る髙木慎一郎

三石:メジマグロ、トリ貝、山菜…

髙木:五月っていうとそういうもんですね。

三石:いわゆるクロマグロの子供ちゃんですよね。

髙木:親の頃から、初鰹の時期じゃないですか。このへんカツオは獲れないけど、クロマグロは獲れるんですよ。だからいわゆるメジマグロをタタキにして出してたんですよ。

だから小さい頃から初鰹をタタキで食べるっていうのは憧れだったんですよ。

三石:これって金沢全体がメジマグロ文化なんですか?

髙木:実はその昔、マグロが獲れても金沢の漁師さんは傷つけないで大事に大事に持ってくるんです。だから中が腐ってる。

だから能登で獲れたマグロは二束三文だったんですが、それがちゃんと獲った後の適切な処理方法を覚えたんですよね。きれいに水揚げされるようになって。そうなると全部東京に行くようになっちゃって、地元には落ちないんですね。

三石:マグロってもともと傷みが早いから、マグロ食べるようになったのって割と最近なんですよね。

江戸時代に、ヅケにしてようやく食べられるようになったという。

髙木:じゃあもう、背のところだけですよね。

三石:そうです。トロの部分は脂っぽいし保存も効かないので捨ててたんですけど、昭和くらいの頃でさえ貧乏学生たちの食べ物でしたし。トロとネギと一緒に煮込んだりしたそうで。

とはいえ縄文時代あたりではマグロは食べられています。特に三陸海岸南部の縄文時代の貝塚からは沢山のマグロの骨が見つかってます。大体、体長1mから2mぐらいだと推定されています。

髙木:1mっていうと30キロくらい。

よくそんなの釣れましたね、その時代の仕掛けで。

三石:釣り方は銛で突いたか網だろうといわれていますね。縄文遺跡からは錘も見つかっているので、網漁はしていたのは間違いないでしょう。

髙木:それだとしたら上げてから〆たってことですよね。

その頃から活け〆はやってたのかもしれない。

三石:やってたかもしれませんね。縄文人はマグロを食べてたんですけど、マグロ食が定着するまでにずっと下魚(げざかな※)って呼ばれてましたからね。

(※下魚:下等なさかな、または値段の安いさかなのこと。江戸時代、魚は上中下とランク付けされていて、マグロは「下の下」だった。カツオは庶民の縁起物で中扱いだった。上魚=あげいお=高級な魚の意味ではなく、漁獲物の一部を神に供えること、またはその魚のこと)

特にトロは食べるもんじゃない。食べても赤身だけ、赤身文化。

クロマグロが高級魚になっていくのは関東大震災以降だといわれています。

髙木:実は茶懐石の献立っていうのは昔からほとんど変わってないんですよ。

いまだに正式な茶事でマグロが出ることはないんですよ。

絶対に向付※に盛ることはない、ブリも怪しい。
※むこうづけ:なますや刺身の名称。茶懐石料理の膳において、手前に置く飯と汁の両椀に対し、向こう側に器を置くことからつけられた。

マグロについて語る三石晃生

今でも「しび」と呼ばれるマグロ

三石:確かに江戸時代の饗応料理にもマグロは絶対出てきません。落語の『目黒の秋刀魚』のオチのシーンじゃないですけれど、サンマなんて下魚を殿が…的な。一方で戦国以降、江戸時代だとカツオの時代ですよね。武士たち好んで、「勝男武士」なんて当て字をしてるくらいなんですけど、かたやマグロの方は嫌われ者。10世紀、平安時代中期の『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』、略して和名抄っていう辞典があるんですけど、マグロは「之比(しひ、しび)」て書いてあるんですが…

髙木:関西だと今でも「しび」って言いますよ。京都では。

どう見てもメジマグロなんですけど、「しび」って。

魚屋さんにこれメジマグロですよって言うと「いやこれ、しびだ」って言って。

三石:漢字では「鮪」って当て字ですね。

髙木:あと関西だと「よこわ」とかって言いますね。

三石:『日本書紀』『萬葉集』にも鮪の漢字は使われてはいるのですが、マグロと呼ばれるようになったのは江戸時代からのようです。真っ黒とか目が黒いってところから名付けられたんじゃないかしら。

髙木:いまだに京都の魚屋さん、ベテランの仲買人さんは「しび」って言いますね。

金沢では言わないですね。「よこわ」も使わない。

三石:京都は武家文化ではなかったから「しび」が残ったんでしょうね。「しび」は「死日」って言葉を連想させます。合戦で死ぬ可能性の高かった武士の縁起かつぎ的には避けたい言葉ですよね。出世魚でもないし、傷みも早いし、いいところがない。

髙木:全然、ありがたい魚じゃなかった。

三石:江戸時代、水野忠邦が老中をやってた天保の時代に日本橋の馬喰町の『ゑびすすしっていう屋台が、マグロで寿司やってものすごく大当たりしたって記録があるので、一応あるにはあったようです。もちろん、ヅケですが。

髙木:その当時の漁具で、ばんばんマグロが獲れるほど居たのか、それとも腕が良かったのかどっちなんだろう。

三石:江戸時代の本の中でマグロ獲りの挿絵とか描いてるんですけど、その中ではみんなで囲い込みをやって、マグロが跳ねてるみたいのはあるんですよね。

あと、この頃、むちゃくちゃ獲れたらしいです。「魚漁ある事夥し。総豆相の三州にて一日一万本を獲るといへり」なんて書いてあるのもあります。

上総国、豆州(伊豆)、相模国。この三つでマグロが大量に獲れたと。一日一万本っていうのは誇張表現でしょうけども。

髙木:でもマグロを囲い込むって言っても当時の船で囲い込めたのかなって思いますね。マグロってめちゃくちゃ速いじゃないですか。

今なんて、大間のマグロ漁船が付けてるのって魚探じゃないですからね。ソナーですよ。

魚探でいうと何百万単位だけど、ソナーになると一千万円単位になるって。

三石:こんな塩梅ですね。木村蒹葭堂という江戸時代の博物学者みたいな人が書いたものなんですが。

日本の伝統的マグロ漁
「日本山海名産図会」 国立国会図書館蔵

髙木:完全に追い込んでますね。へぇー。

三石:私、実はそんなにマグロ好きというわけでもなくて。生まれがずっと東京で、先祖は江戸で旗本やってたんですけど、我が家はカツオ文化ですね。

髙木:東京でカツオって昔から食べるんですか。

三石:もう、初鰹ですから。初物大好き、カツオ大好き文化だと思います、生粋の山の手のほうの東京人は。

髙木:はっきり言えるのは、カツオが金沢で刺身で食べられるようになるのは本当に最近だと思うんですよね。

三石:兼好法師の『徒然草』で「鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比(ころ)もてなすものなり」って言っていて、昔は下魚だったカツオも最近では人気で高級魚になるとはねえ、ということが書いてあります。おそらく、これは生で食べてたんじゃないかな。

髙木:うちの場合はメジマグロが地元で獲れるから使うんですけど、メジマグロとカツオを比較してどう違うかというと、全然違うので同じものにはならないですよね、結果的には。

三石:やっぱり、魚というものは醤油が出てきたことによって全然変わるんですね、話が。

江戸時代の中期頃になってから千葉あたりで濃口醤油が作られて一気にそれが広がっていくようになるんですけど、この濃口醤油を使えば生臭ものが食えるようになると・・。

他の魚って塩漬けにして保存効くんですけど、マグロって塩漬けにしても全然美味しくならないですしね。かといって塩で食べても美味しい魚じゃないですし。


次回、醤油が育てたマグロ食文化に続きます。