2022.05.10

紗倉まな 春、死なん
【私の食のオススメ本】

春、死なん 表紙

  • 書名:春、死なん
  • 著者:紗倉まな
  • 発行所:講談社
  • 発行年:2020年

この本には「春、死なん」と「ははばなれ」の2作が収められている。前者は妻を無くし2世帯住宅の片側で孤独に暮らす70代の男の話だ。後者は夫と死別した初老の母のあっけらかんとした恋人とのセックスライフを知ってしまう、20代の既婚の娘の視点からの話。

どちらも老人の性がテーマとして存在する。しかし本質的テーマは読者をいまだ「ジェンダー」スタンダードな世界に生きていることに気づかせ、コンクリの皮膚のように張り付いてるその規範を瓦解させることにあるのだと思う。

著者は紗倉まな。テレビでもコメンテーターとしても活躍する木更津高専時代にデビューしたカリスマと云われるAV女優。2020年5月、徳間書店調査の「現役AV女優セクシー総選挙」の総合1位を獲得。同年本書で第42回野間文芸新人賞の候補作に選ばれている。以前のインタビューで自分の仕事はすべて「紗倉まな」の上で行われているというような話をしていた。AVの仕事は天職だという。自分はエロ屋だとも言う。今どきYouTuberでもある。

食に関する本のコーナーで紹介するにはふさわしくないようにも見えるけれど、個人的には「食」ということがどんな時にも消え去ることがないのだと確認させられた本だ。

今回取り上げている「春、死なん」には一ヶ所を除き具体的な料理がほぼ出てこない。出てくるのは食卓やキッチンのありさまだ。つまり「食」と食の風景は状況を表すツールのように扱われている。

妻が死んで無気力になった時には家事もままならずシンクに重ねた汚れた食器が匂いを放つ。
食事はいまだに肉と野菜の種類だけを変えて炒めたものばかり。
安い上に自分が作るよりも素材が豊富で栄養価が高いパックの惣菜を買い始める。

回想だが、妻が生きている時に、2世帯住宅の初入居記念で初めて入った息子の家の食卓に並んだ料理の多さ。親を迎える長男が姑と折り合いが悪いと思われる嫁に当たり前のように用意させたものだろう。しかし物語ではサラダにしか触れない。
妻はある時を境にうつ状態になり死んでしまう。その時の状況をどんどん汚れ物がたまっていくダイニングやシンクで表す。

台所はよく語る。

妻の死後、70歳の男はスーパーで夕食のための肉や野菜を買い、箸を2膳もらう。次にコンビニに寄りゆっくりと買い物をし「時間を潰す」。買ったものの間にAVのDVDを重ねてレジに向かう。家に帰り死んだ妻の分も一緒に食事を作る。

たまたま入った喫茶店で大学時代に一度だけ関係があった女性店主と出会い、試作品のドライトマトの入ったペペロンチーノ・スパゲティを食べさせられる。それが物語の中で唯一具体的な味を感じさせる場面である。(もう一つ、料理ではないが、女性店主の祖母が貝の味噌汁が食べられなくなった話があり、重要なシークエンスとなっている)

夫を失った女性店主が主人公の男に、西行の「願はくは花のしたにて春死なん その如月の望月の頃」を知っているかと問う。
熱せられたオリーブオイルにニンニクが入り、食欲をかきたてる匂いが店内に一気に広がった時だ。

(多くの老人たちはジェンダーの規範に閉じ込められている。それは老人だけではないし、われわれも知らず知らずに他者をジェンダーによって閉じ込めている)

主人公は随分と久しぶりの、食事を誰かと話すと言う「日常」を認識する。<胃だけではなく内臓のどこかも、ゆっくりあたためられていく感覚を噛みしめ>たのだ。許しと前進。

(紗倉マナはインタビューで性について「重いか軽いかでいう人は多いが、自分は前向きか後ろ向きかで考える」と答えている。このインタビューを見たプロデューサーで慶應大特任准教授の若新雄純 は、これは紗倉まなの言葉がもつ感受性の高さを表していると昂揚しながら話している)

<満開の桜の下で死にたいと読んだ西行>の通りになれなかった女性店主と「ただ生きること」を続けていた主人公が、老人はこうで当たり前、男はこう、女はこうという世間のジェンダー規範を打ちこわし始める。閉じ込めていた欲望が解放を求めた場面をつくるのがその「行く春のペペロンチーノ」。

紗倉まなはこのシーンのために、他では一切料理を具体的にしなかったのではないだろうか。女性は男を誘って飛び出す。ここから始まる解放と解体の物語は重く爽快である。

老後のためにも中年になったら男女関係なく「食育」を受けるべきだと思う。仕事を辞めたり、パートナーに先立たれた時に「食」を楽しめたらこの主人公のような時間を過ごさなくて良いのではないか。スーパーやコンビニが時間潰しではなく「楽しみ」であるなら。明日は何を食べようか。新しい調味料を試してみよう。美味しく食べるために健康でいよう、と思うようになるのでは。

ただし、あまりに充実しているとこの主人公と女性店主のように解放される瞬間は味わえないか。(ネタバレなので書かないが)

本書を書き上げたのは2019年あたり、著者が26、7歳だったと思われる。その繊細でありながら無駄なものを省いた文章に惹かれてしまう。初めて山田詠美の文章に出会った時のような感じなのだが、山田のそれはスケッチブックに鉛筆で少ない線でしっかり写し取ったような文章だが、紗倉のそれには空気に触れた血液のような粘度を感じる。

最近はYouTubeで紗倉まなの整体施術の様子を観たり、成田悠輔氏との対話ひろゆき氏とのトークを聞きながら、彼女のすべてはこの「紗倉まな」の上で作り出されていくのだなあと思ったりする。

人間が「ただ生きてしまわない」ためには食と性に向き合って行かなければならない。それも他者による意味を持たない規範を打ちこわして。

WRITER Joji Itaya

出版にたずさわることから社会に出て、映像も含めた電子メディア、ネットメディア、そして人が集まる店舗もそのひとつとして、さまざまなメディアに関わって来ました。しかしメディアというものは良いものも悪いものも伝達していきます。 そして「食」は最終系で人の原点のメディアだと思います。人と人の間に歴史を伝え、国境や民族を超えた部分を違いも含めて理解することができるのが「食」というメディアです。それは伝達手段であり、情報そのものです。誰かだけの利益のためにあってはいけない、誰もが正しく受け取り理解できなければならないものです。この壮大で終わることのない「食」という情報を実体験を通してどうやって伝えて行くか。新しい視点を持ったクリエーターたちを中心に丁寧にカタチにして行きたいと思います。