2019.02.08

熟成というパネトーネの誘い

四つ切りのパネトーネ

熟れ行くパンと作家たち

食に関する話で素敵だなあ、と思ったものに雑誌オール讀物『食べる私』という連載でエッセイスト平松洋子が宇能鴻一郎邸を訪ねるというのがありました。宇能鴻一郎はもちろんあの「部長ったら、スゴイんです…」の官能小説家です。宇能氏は一人で邸宅に暮らし、毎日の食事を調理人に作らせる健啖家でもあります。御歳82歳。

そこへ「食べる私」ならぬ食べられるかもな私になった緊張の平松氏が訪ね一緒に食事をするわけです。その時間は宇能氏の小説さながら進行している様で、食べるということは最大のエロスなんだと思ったわけです。平松氏はきっと食事をしながら「私ったら、ヘンなんです…」てなって行ったんだろうな、と思うエッセイでした。

なんでそんなことを思い出したかというと「パネトーネ」というパンの所為なんです。去年の11月に手に入れたイタリア直輸入の職人手作りのパネトーネ。近頃は11月になるとパネトーネがあちらこちらで見受けられるようになりましたが、実はイタリアではクリスマスの4週間くらい前に各家庭でつくったり買ったりして、当日までつまみ食いをしながらクリスマスの準備をするという、ブリオッシュ生地にレーズン、プラムなんかのドライフルーツを混ぜ込んで焼いたものです。

つまり時間をかけて食べていいようにパネトーネ種という酵母で発酵させていて、焼いた後も熟成していくので室内に置いておいても平気なんです。昨年このパネトーネのことを書いたのですがその後を書かなきゃということになり、熟成というワードがエロスにつながり、なぜか宇能鴻一郎×平松洋子につながってしまったんです。

発酵するパネトーネの罪なささやき

昔、パネトーネを教えてくれたイタリア料理店のおじ様は店の奥にしまってあるものを指して「これだけはね、クリスマスまでに食べないで、年が明けて3月まで取っておいてゆっくりいただくんだよ。ワインじゃなくてリキュールでね。その時は君も来る?ふふっ」と耳元で意味深に囁いたのがずーっとどこかに残っていました。あの時はついドキッとしてしまったんです。たしかに賞味期限は翌年3月とあります。そこで今回は熟れて行くパネトーネを体験してリポートしてみようと思ったわけなんです。

12月に入り最初に封を切った時はドライフルーツの入った焼きたてのパウンドケーキのような爽やかな香りが上がりました。でもなんだかまだレトロなお菓子感が残っています。熟すという言葉はさがせません。ホールを半分にし、キッチンペーパーを巻きラップし、室温が上がらないところに保存しました。残りの半分から少しずつ食べ始めたんです。

1週間め、2週間め。あまり変化はみられません。それより少し乾燥したのではと心配になりました。3週間め。気のせいか少し乾燥が減ったように思います。そしてパンの方にドライフルーツの香りが入ってきたような気配が。いよいよクリスマスに。

あれ、ドライフルーツたちの香りと深い味わいが口の中に飛びこんで来るではありませんか。そしてパンに残るパネトーネ酵母独特の優しく自然な風味があとから追いかけて来ます。そして混ざり合い味覚の交歓。「さすがに高級なドライフルーツね、パネトーネ種ね」と冷静さを取り戻してみます。

「たしかに美味しい!でもまだ熟成感はないわ」。パネトーネ、何か変化の仕方が挑戦的です。「まだ食べてくれないの?もう十分美味しいよ」と語りかけて来るようです。大人のアンパンマン物語というんでしょうか。その頃に半分なくなりました。私たち少し離れた方がいいよね、と意を決して残り半分を見えないところに保管し封印したのです。

焦らしているのはこっち? 〜パンに焦らされるという体験〜

そして2月に入りました。実は忙しさにかまけて忘れていたんです。別の用事で保管場所をあけてびっくり。カビが生えたのでは、腐ったのでは、あわててラップを解きました。白いキッチンペーパーを脱がし始めると…。これまで嗅いだことのない香気が。そこにどっしりと重さを増して佇むパネトーネ。ナイフを待てずその場で指でつまんで、ゆっくりと口に含んでみました。

発酵と焼き上げでできた目に見えない小さな空洞の中に全てのレーズン、柑橘の皮、杏仁とドライフルーツの香りが詰まっているんです。それが鼻から脳へとやってきます。そしてそのしっとりとした感触は熟成の間に生まれたものとしか思えません。ここからもっと先へ進むのでしょうか。

もう少し、いやもっと熟成の域に達したら、ザバイオーネを添えて食べてみたい。生クリームも、アイスクリームも添えて。でも、がまんできるかしらん、と葛藤が始まります。ザバイオーネはカスタードクリームにマルサラワインを加えたものです。

混乱しながら、クリームパンダはあんなやんちゃで元気キャラじゃないわ、とか考えてしまいました。そして私、世の中で一番エロティックな職業はパティシエではないだろうかとか思っちゃったんです。でも、あの3月の囁きまで本当に待てるでしょうか。果たして焦らされているのはどっちなのかしら。

ダメダメって思っても、きっと食べてしまうんだわ、熟成を待ちきれずに。だって3月は遠すぎるもの。

WRITER Joji Itaya

出版にたずさわることから社会に出て、映像も含めた電子メディア、ネットメディア、そして人が集まる店舗もそのひとつとして、さまざまなメディアに関わって来ました。しかしメディアというものは良いものも悪いものも伝達していきます。 そして「食」は最終系で人の原点のメディアだと思います。人と人の間に歴史を伝え、国境や民族を超えた部分を違いも含めて理解することができるのが「食」というメディアです。それは伝達手段であり、情報そのものです。誰かだけの利益のためにあってはいけない、誰もが正しく受け取り理解できなければならないものです。この壮大で終わることのない「食」という情報を実体験を通してどうやって伝えて行くか。新しい視点を持ったクリエーターたちを中心に丁寧にカタチにして行きたいと思います。