2020.11.04

地物が食べたい

髙木慎一朗シェフのニューヨーク食事会

これは2008年から2013年まで ニュー・サイエンス社発行「季刊・四季の味」に『銭屋の勝手口』として連載された銭屋主人・髙木慎一朗による随筆の一編です。連載では料理人である筆者の目と体験を通して日本料理の世界と人、美味しいものなどについてが綴られています。今回はNo.55 2008年12月8日発売号に掲載されたものを出版社の許諾を得て掲載いたしました。 


鉛色の空と荒れ狂う海、容赦なく叩きつけるように降る冷たい雨、たっぷりと水気を含んだ霙、これらが金沢の冬の始まりの合図です。

何年か東京で暮らしていた金沢育ちの友人は、久しぶりに地元に戻ってきて、このような天気に見舞われてようやく、「ああ、地元に戻ってきたんだなぁ」と実感したそうです。

いまこのエッセイを書いている十一月十九日に、金沢にはいきなり冬が到来しました。マイナス三十度以下の寒気団が運んでくる霙が、あたり一面をあっという間に真っ白にしてしまったのです。

せっかく解禁したばかりの蟹も、脂がのってきていよいよ美味しくなっていく鰤も、このような天気で海が時化ている間は、いわゆる「地物」が市場に全く入ってきません。そんな時は仕方なく、「地物」ではない鰤や蟹を使うしか手はないのですが、それらがいかに吟味したものであっても、せっかくお越しいただいたお客様には申し訳ない気持ちで一杯になります。

もちろん、すべての「地物」が最高だと言っているのではありませんが、金沢で料理屋をやっている以上、どうしてもこだわらなければならないことであると思っています。

数年前に北海道のとある寿司屋で食事したときのことです。カウンターに座って、「おまかせ」で握ってもらったのですが、穴子や鯵、鯖などがとても美味しくて感激でした。

「この辺で、こんな良いものが揚がるんだ」と勝手に納得して、

「どちらで獲れたものですか?」と聞いてみたところ、

「九州と瀬戸内のものです」という返事。

「…………」

ちょっと驚いたのと同時に、がっかりもしました。私にしてみれば、せっかく北海道まで来ているのですから、ここでしか食べられないような食材や、名産品を食べたかったのです。

そこで「地元で獲れたものをいただきたいのですが」と改めてお願いしたところ、海水に浸かったまま利尻から届いた雲丹や、漁獲量が極めて少ない鮭児などを出してくれました。実は鮭児をいただくのは、この時が初めてでした。

その味自体の美味しさもさることながら、食べながら感じていた「普段と違うところに来ているんだ」という良い意味での違和感というか旅先での高揚感が、何よりも楽しい気分にさせてくれたことを、今でも鮮明に覚えています。

私の旅先での楽しみは、ご当地ならではの料理を食べる、ということに尽きます。しかし昨今、「ここでしか食べれません」という食材はずいぶん少なくなっていると思います。流通のネットワークと鮮度を維持する技術が発達したおかげで、何処にいても手に入らないものは無い、に近い状態ではないかと思うほどです。

実は今年の二月に銭屋は店を一週間ほど閉めて、ニューヨークで出仕事をしてきました。アメリカの格付け本、ザガットサーベイの創業者ザガット夫妻や、いまや親しい友人としてお付き合いしているユニオンスクエアカフェのシェフ、マイケル・ロマーノ氏やジャン・ジョルジュ氏、エリックリペア氏といったその名を轟かせているシェフなど、いわゆる「食」に関するエキスパートたち十六名が、お客様として来て下さいました。

その御席用の献立を考えていたときの、密かなるコンセプトは、「銭屋がそのままNYに引っ越したとしたら」でした。要するに食材は現地、器と板前(技術)は金沢から、ということだったのです。残念ながら、本来料理屋の看板である女将や仲居さんたちは留守番でしたが。

食材のほとんどはNYで仕入れました。NY近郊でとれた平目であったり、ニュージャージーのオーガニックファームで収穫した壬生菜であったりと、NYに来る前に想像していたよりもずっといい状態の食材が手に入り、ホッとしたのを今でも覚えています。

現地での食材を探している際に、NYの和食レストランが取引しているという魚屋というか商社にも伺いました。そこで見せてもらった月ごとの商品リストを手に取った瞬間、私はぎょっと見入ってしまいました。

大間の鮪、青森の平目、豊後水道の鯖、氷見の鰤など、おおよそ思いつく、旬の鮮魚のほとんどが列記されているではないですか。

このルートでの発注に関しては、注文してから納品まで数日を要することと、日本の市場での仕入れのように数ある中から自分で選んで買えないこと、この二点が私達が毎朝行っている仕入れとの大きな違いですが、それを気にしなければ、前もって注文したものが普通に店に届くなんて、まるで金沢にいて近江町市場に発注するような感覚であるともいえます。

もちろん鮮魚の話ですから、輸送時間を考えれば日本と同じ品質の食材とは言えないかもしれませんが、私にしてみれば十二分に驚かされた現実でした。

そして器の運搬についてですが、いろいろ調べて、考えた結果、ハンドキャリーすることにしました。業者を使って送ることも考えたのですが、いくら保険をかけたとしても破損した状態で現地に着いては、全く意味がありません。また、いくらお金を払っても同じ器をもう一度手に入れることは、現実的には不可能に近いことなのです。幸い調理スタッフも何人か連れていくことになっていたので、後悔しないように自分たちの手で何とかしようと思いました。

十六人分の食器と言いながらも、コース仕立てですから、先付から最後のお菓子まで入れると十品になります。そのほかに猪口やつぼつぼ(※)など細々としたものや、万が一の破損を考えた予備まで含めると、相当な量となります。加えて、どうせやるならととっておきの器を使おうと思いたち、古染付や輪島塗など先代が手に入れた器を中心に持っていくことにしました。

献立や器などに関しての大まかなプランが出来上がってきた頃、銭屋の帳場で、料理長である弟の二郎に、

「おい、大変な荷物になりそうだぜ」と話していると、すっと女将が現れて、

「ダイニングテーブルの上に、青竹に生け込んだ花を飾ったら? きっと映えるわよ。青竹、持っていきなさいよ」と言い始めました。
そのようなことは全く考えていなかったので、

「この期に及んで、なんと面倒なことを言い出すんだ!」と一瞬思いましたが、冷静に考えてみると「言われてみればなるほど」ということになって、長さ六十センチほどの青竹を数本、荷物に入れることになりました。

青竹はそんなに重いものではないので、荷物が増えてもさほど気になりませんでしが、運ぶ上で重かったのが石焼用の石でした。その数は予備も入れて二十個、重量は量っていませんが、それが入ったスーツケースは、日本人としてはかなり大柄な私ですら、やっと持ち運べるような具合でした。実際には、同行したウチの若手に運ばせましたけど。

包丁、羽釜、巻き簾などの道具類や食器類、そのほか諸々を入れたその総量たるや、スーツケース九個分。もちろん、個人的な荷物は別です。総勢四名で手分けして持っていきましたが、私は食器の中でも特にデリケートなものだけを機内持ち込み手荷物として運びました。

このような準備の結果、おかげさまで食事会はさしたる問題も無く成功裏におわりました。このあたりに関しては、いつか機会があったら詳しく書いてみたいと思います。

このような機会を得て、貴重な経験をさせていただいて思うのは、何十年も前からNYに渡り、料理をはじめとする日本文化を広めようとして努力し続けてきた多くの先人たちがいてこそ、私たちのような新参者が日本料理を披露できる環境ができてきたのだということです。材料も道具もそろっていない困難な状況で和食を作り続けてきた先輩たちの苦労を考えると、心から敬服いたします。

外国の和食は本物でない、などと軽々しく口にするべきではないと思うようになりました。

どこにいても、どんな物であってもほとんど手に入る世の中にあって、これからの私たち料理屋の向かうべき方向はどこなのだろうか、と最近考えることがあります。

私の中では、東京でもNYでも食べられる料理を金沢で作っても、意味はありません。いまこそ、郷土料理の集合体として「日本料理」を再認識し、受け継がれてきた技術をさらに磨きをかけて、誇りを持って日本の各地から日本料理を世界に発信するべき時期が来たのだと思います。その土台となるのは、銭屋にとっては地元金沢の文化であると確信しています。

日本中から、世界中から、金沢にめがけて美味しい料理を食べに来て欲しいなぁ、って、いつも夢見ています。

さて、俺もこんどは何処に行こうかな。

※つぼつぼ:千利休を祖とする茶道の諸流派でつぼつぼ文様として広く用いられているが、その文様のモティーフとなった掌に収まる大きさの口の狭まった壺状の器。

石川県金沢市「日本料理 銭屋」の二代目主人。
株式会社OPENSAUCE取締役