2024.09.10

施川ユウキ『鬱ごはん』

  • 書名:鬱ごはん ①〜③
  • 著者:施川ユウキ
  • 発行所:秋田書店
  • 発行年:①2013年初版発行 2019年8刷

アルバイト生活の就職浪人生「鬱野たけし」が主人公。友人が少なく自炊はほぼしないのでチェーンの飲食店などで独り言ち(ひとりごち)ながらルーティン食いをする。コミュニケーションを極力必要としないファミレスやファストフード、中華屋や牛丼屋に通うのだが、その日の「食べたい」気分は大事にしているらしい。漫画『孤独のグルメ』のゴローさんのように当たりの店を求めて飛び込むようなギャンブルはしない。

『鬱ごはん』というタイトルから鬱症状の人の漫画だと思ってしまったが、ウツウツと自分が店側からどう見られるかあれこれ考え悩んで、要りもしないものを追加オーダーしたりする男の話だった。読んでいたら自分もこんな感じで外食をしているのではないかと少しだけ不安になった。しかしながら、入店行動と料理に関してウツウツと心の中で語られる(吹き出しの)一家言は、時によっては哲学のようにも思えてくるので不思議だ。まあ、偏屈な意見も多いのだが、ちょっと”そうかも”と思わせる。

「思うにベジタリアンの前世はハエ取り草に食われたハエだ。奴等は植物に復讐心を燃やし、執拗にサラダを食う」

「食事とは本来排泄と同じく、隠されるべき行為なのではないだろうか?」

「どうせ死ぬのに飯は食わねばならない。生きるコトも死ぬコトも日々断念し続ける」

食に関わる仕事をしていると、全員が「おいしいものが好き」で「おいしい」がモチベーションになって目的の店を探したり買い求めたりするものだと思いこんでしまう。

この主人公同様、「おいしさ」より面倒くささが勝っている人間も多いのではないだろうか。そしてこれも主人公同様で「まずいのは嫌だけれど、不味くなければ可」という人間だ。

自分は「人と食事をするのは好きじゃない。そもそもたいして食に興味がない」
そんな人をハブったりしていないだろうか?ちょいと見下したりしていないだろうか?

故伊集院静氏が「食べ物の話はどう書いても卑しくなる」というようなことを言っていたのを思い出した。この漫画を読んで「卑しい」という意味がもう少しわかってきたように思えた。

この漫画を日々グルマン相手に、あるいはチェーン店でヒット商品を考案中の飲食ビジネスで戦っている人々にお勧めしたい。

WRITER Joji Itaya

出版にたずさわることから社会に出て、映像も含めた電子メディア、ネットメディア、そして人が集まる店舗もそのひとつとして、さまざまなメディアに関わって来ました。しかしメディアというものは良いものも悪いものも伝達していきます。 そして「食」は最終系で人の原点のメディアだと思います。人と人の間に歴史を伝え、国境や民族を超えた部分を違いも含めて理解することができるのが「食」というメディアです。それは伝達手段であり、情報そのものです。誰かだけの利益のためにあってはいけない、誰もが正しく受け取り理解できなければならないものです。この壮大で終わることのない「食」という情報を実体験を通してどうやって伝えて行くか。新しい視点を持ったクリエーターたちを中心に丁寧にカタチにして行きたいと思います。