
- 書名:「好きな食べ物がみつからない」
- 著者:古賀及子(こが ちかこ)
- 発行所:ポプラ社
- 発行年:2024年
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このRIFFがスタートして間もなく「最後の食事問題」という話を書いたことがある。
〜会ったばかりで血液型を聞いてくる人は論外として、無人島に持っていきたい本は?とか最後の日に何が食べたい?とかゲーム的な質問が私は苦手です〜
というところから始まる、母が亡くなる前に病室で「食べたい」と言った食べ物の話なのだが、本書を読んで著者・古賀及子の気持ちというか性格というか、彼女の45年の悩み(?)にシンクロし、あのとき言いたかったのは実はこれだったのかもしれないと思ったのだ。
著者の「好きな食べ物がみつからない」というのは、好きな食べ物がないということではなく、好きな食べ物はいっぱいあって、食べ物で「何が一番好き?」と聞かれて即答できないということである。
娘はよどみなく「タコライス」と答え、息子は「杏仁豆腐」というらしい。それがうらやましいのである。友人は「すっぱいもの」と答え、それ、味じゃん!そんなありか?と著者の思考回路を断線させる。
また、他の友人は質問に食い気味に「おにぎりです!」と答える。そこで著者の頭は「具材はなに?」と思ってしまう。
そんな彼らを著者は「逡巡がない」と書き、「うしろを振り返ることなく颯爽として生きている」と評する。つまり、うらやましいのである。
そんなこと、どうでもいいではないか、答えなきゃいいじゃんと思うかもしれないが、きっと著者も過ぎたる逡巡から決別したいのだろう。
なぜかというと自分の場合、「一番好きな食べ物は?」と聞かれたときに適当に「〇〇店の餃子」答えてしまった場合、嫌いではないが先週食った餃子が美味かったな程度で深い思い入れもない食べ物に、それ以上に突っ込まれるのが怖いのかもしれないし、答えないとその場の空気が澱みそうで早く答えないと、とドキドキしてしまうのだ。
つまり、みんながのってる時に合わせるスキルとか、想定問答に答える準備をしていない自分がいたたまれないのだ。
大喜利だとすると答えるのに悩んではいけない。熟考よりも求められるのは即答だ。
「好きな食べ物がみつからない」本文より抜粋
そのうえで、セルフプロデュース、自分がどう見られたいかの計算が求められる。
もちろん、実際にちゃんと好きな食べ物を答えなければ質問者との信頼関係に関わる。
と著者は書いている。
そうなのだよ、怖くないですか?この質問。好きな食いもんの話で自分をラベリングされるかしれない。これって何ハラ?
フェイバリット・ハラスメント?
(おっ、この言葉を最初に使ったのもしかしてオレ?と思ったら、ギャグ漫画家の古賀亮一という人が『新ゲノム』の中で、キャラクターのセリフとして「マイ・フェイバリット・ハラスメント」と言わせたらしい。チエッ)
しかし、著者は、前述の子どもや友人たちについて
彼らは「あなたの好きな食べ物はなんですか?」に生き生きとしてきっぱり答えることによって、豊かな時間を過ごしている。
「好きな食べ物がみつからない」本文より抜粋
と言い、
やっぱりみつけたい。
「好きな食べ物がみつからない」本文より抜粋
私の「好きな食べ物」、どこにきっと、あるはずなのだ
と、童話の主人公みたいかどうかはわからないが、「好きな食べ物」ベストワンを、思い出とリアルのなかで探す旅にでる。
さて、著者は、<憧れのあのひとたちには「好きな食べ物」がちゃんとある>としてサンリオのキャラクター”ポチャッコ”の好物がただのアイスクリームではなく〇〇アイスクリームであることを知った思い出を語る。
中学生の娘が「アイスクリーム、じゃダメなんだ。その先まで届かせて、〇〇アイスまで行かなくちゃ、キャラクターの食べ物にはならないんだね」という発言から、好きな食べ物宣言をする難しさを言い表している思い、「そう厳しいのだ、食べ物は」と書いた。
付け加えると、著者はキティちゃんの好きな食べ物が「ママのつくったアップルパイ」であることも知る。
また、著者が小学生時代に転校した際に、好きな食べ物をみんなの前で発表することになり、焦った結果つい「アボカド」と答えてしまったエピソードがある。即答せねばと言う気持ちと若干のウケ狙いがあった。
アボカドはまだそれほど一般的ではなく、クラスはざわつく。先生の「わさび醤油で食べるとおいしいと聞きます」とフォローがはいり切り抜ける。
著者、古賀及子の受難は始まっていたのだ。
大人の世界にはその場のようすで数ある好きな食べ物なかからついっとよさそうなものを選んでスッと場に差し出す強者がいたい、これぞという一品を心に携えて乗り切る賢者がいる 〜中略〜 共通するのは軽やかさだ。彼らは自分を知ることで、人を楽しませてもいる。コミュニケーションの玄関として、上手に「好きな食べ物」を使っており、かっこいいなと思わされる。
「好きな食べ物がみつからない」本文より抜粋
そして、こう続ける。
私は結局あれからまだずっと迷い続けたままだ。おとなになった今だからこそ、大人らしくこの問いにあらためて取り組む。しょうの自分から、バトンはたしかに受け取った。
「好きな食べ物がみつからない」本文より抜粋
解説を担当した女優の上白石萌音は、冒頭1行で「茄子です。あと肉も好きです」と言い、「とずっと答えてきた私は、迷いなく使い古してきたこの二枚のカードに今はじめて疑いの目をむけている」「そこに責任はあるのか。もっと、興奮できる何かがあるのではないか」と書き、本書を読み終えた者はみんあ同じ気持ちなのではないか、と問う。
読み終えるとわかるが、上白石萌音の書くように、これは<「好きな食べ物」についての論文>だ。
そして<一つの問いに複数の仮説を立ててそれぞれ詳細に検証し、あらゆる可能性を鑑みて、派生した枝の一本も逃すことなく深く疑っていく>のである。
余談だが、この上白石萌音の解説文が素晴らしい。もちろん批評家ではないので本書と古賀及子への絶賛が続くのだが、あまりにも的確。
本書では、高級アボカドを食べてみたり、名店のチーズケーキを食べてみたり、仙台まで行っておはぎを買う話や下手でもおいしいオムライスのこと、鮨という括りで多種多様すぎて一つの食べ物として推せないと思い、高級料理を誰かの結婚式ぽいと感じたり、途中で一旦構築してきたことを解体してみたり、「いちばん好きな食べ物」という目的地に近づこうと「研究」を進めていく。
ホントにこの作業は必要なのか、とどこかドキドキしながら読んでいる自分に気づく。
そして、やっぱり、決めておくか「好きな食べ物」、と思うのである。
出版にたずさわることから社会に出て、映像も含めた電子メディア、ネットメディア、そして人が集まる店舗もそのひとつとして、さまざまなメディアに関わって来ました。しかしメディアというものは良いものも悪いものも伝達していきます。 そして「食」は最終系で人の原点のメディアだと思います。人と人の間に歴史を伝え、国境や民族を超えた部分を違いも含めて理解することができるのが「食」というメディアです。それは伝達手段であり、情報そのものです。誰かだけの利益のためにあってはいけない、誰もが正しく受け取り理解できなければならないものです。この壮大で終わることのない「食」という情報を実体験を通してどうやって伝えて行くか。新しい視点を持ったクリエーターたちを中心に丁寧にカタチにして行きたいと思います。