- 書名:土を喰らう十二カ月
- 著者:中江裕司
- 発行所:朝日新聞出版社
- 発行年:2022年
『土を喰らう十二カ月』は2022年11月に公開された映画と同名の中江裕司監督自身による小説である。映画の中の料理は土井善晴氏が担当した。
原案は水上勉 『土を喰う日々 ―わが精進十二ヵ月―(新潮文庫 1982年初版)』というエッセイである。先に書いておくが、精進料理に興味があるならばこのエッセイを手に入れることをお薦めする。(モノクロだが)写真や調理法も多い。
漫画『美味しんぼ』の中で海原雄山は水上勉の『土を喰う日々 ―わが精進十二ヵ月―』を「現代で唯一読むに値する食の本」だと言っている(雁屋哲氏の代わりだとは思うが)。
そんなこともあって、映画を観る前にこの小説と原案になった水上勉の本を読み比べてみようと思ったのだ。が、少し読んだところで無駄な考えであることに気づいた。ということで本稿では本書を中心に、水上勉の『土を喰う日々』にも触れることにした。
ややこしいが、著者も言うように『土を喰らう十二カ月』のほうは映画の脚本をもとに新たに書き下ろしたフィクションであり、映画と同じではない。当然ながら原案になった水上のエッセイともまた違う。
中江裕司監督による小説では主人公は作家のツトムさんである。モデル(と言っていいのか)になった水上勉は60歳の頃に軽井沢の田舎に仕事場を移し、一人暮らしの中で執筆活動をしていた。この時の話がもとである。ただし。映画と小説は現代の話であり、一回り以上年下の女性編集者やスマホも登場する。エッセイが書かれた頃から40年以上と隔世しているのである。
小説を読んで実際の水上勉のことと混同してはいけない。原案本と小説、この二冊に共通することは、水上勉とツトムさんが幼くして禅宗寺院で庫裡(寺院の台所がある建物)で暮らし精進料理を覚えたという事実と設定である。あとは本書も映画も中江裕司監督の妄想で組み立てられている。
小説と映画では<時折、担当編集者で恋人の真知子が、東京から訪ねてくる。食いしん坊の真知子と犬のさんしょ。旬のものを料理して一緒に食べるのは楽しく、格別な時間。歳の離れた恋人がいて、作家としても悠々自適な暮らしをするツトムだが、13年前に亡くした妻の遺骨を墓に納められずにいる>という設定だ。
季節と台所番の心得書「典座」
新しい小説である本書ではタイトルが『〜十二ヶ月』でありながら二十四節気をベースに章立てされているのだが、料理の詳細な描写はほぼない。変わりゆく季節のなかで畑や山で採れる食べ物たちのこととともに語られる小さな人間関係のことだ。
季節とともにある営みを語るときには、確かに農業に由来するといわれる二十四節気の方があっている。現代の時期とはややずれているのだとは思うのだが。
本書でも主人公のツトムさんは執筆しつつ、畑仕事をしながら、そして料理をしながら、典座(てんぞ)修行で老師から教わって身体に染み付いていたりすることや思い起こしたりする記憶で生きている。便利な東京生活から、亡くなった妻の意見でいやいや山の中の住まなくなった古民家に越してきたのだが、自給自足が基本ということを受け入れた時から少し余裕が出てくる。
11歳で典座見習いとなり老師和尚の食事番となったツトムさんは日常の中で教えを受ける。それをいま高齢になり、土をいじる中で実践することになる。
台所番である典座の心得書が道元が書いた『典座教訓』だ。内容は生活全般にわたって書かれ、厳しい教えとなっている(水上勉によると最初の修行では臨済禅で百丈禅師の『百丈清規』だったらしい)。
いくつかの宗派にもこういった台所番を中心とした教えがあることが面白い。すべては土の恵み、そして食からなのだ。
<米を洗うこと、菜をととのえたりする時は直接自分の手で行わなければならない。材料を親しく見つめ、細かく行き届いた心であつかう。一瞬も怠けてはならない。孝徳を積むことにかけては大海の一滴ほどの小さなことでも人任せにしてはいけない・・・>。典座教訓にはこのようなことが細かく書かれ、守らなければならない。
ツトムさんは寺に入ったばかりの頃、畑からとってきたほうれん草を洗った水を不用意に捨ててしまい老師にこう一喝される。粗末なことをするものではない。一滴の水でも草や木が待っている。なぜ考えもなしに捨てるのか。無駄に捨てるなら庭に出て、これと思う木の根にかけてやれ」これが心得であり、すべては修行なのである。
自給自足を受け入れられたのも、きっとこの修行があったからだ。
料理は畑と相談。
旬を食べることは土を喰うこと。
老師のもとに客人が来た時は「何を作るかは畑と相談や」と畑に行かされた。<ゆめゆめ品物のよしわるしにとらわれて心をうごかしてはならない。物によってこころを変え、人によって言葉を改めるのは、道心のあるもののすることではない>と典座教訓にある。
辛い大根おろしも飯にのせると甘くなる。痩せた大根にも(辛くて)身震いさせる野生の力が残っている。ほうれん草は雪の下で甘くなっている。
水上勉のエッセイには「何もない台所から絞り出すのが精進」とある。そしてそれは店頭でなんでも揃う場所でのことではなく、畑に行って考えるというところにある。だから水上勉は「土を喰う」とした。
雪をかきわけて見つけた菰の下のほうれん草。雪上のリスの足跡をたどって見つけた泥の中のクワイそして里芋。昨年のうちに作った干し柿と白菜漬け。春になっての山菜。水芹、コゴミ、タラの芽。立夏にはじゃがいもと小松菜の芽が出る。花山椒に蕗、なめこやジコボウ、そして松茸。小満は筍の時期。木の芽。芒種の梅。夏に向かい、ちりめん紫蘇。大暑の胡麻。ジャガイモの収穫。胡瓜。うちわ茄子を胡麻味噌で。茗荷の処暑。ゴマの皮をむいて胡麻豆腐・・・
本書『土を喰らう十二カ月』は精進料理の本ではない。ただそういう生活をしてみたいと思わせてくれる景色が描かれている。
余談だが、15、6の頃に井上ひさしと野坂昭如と水上勉の講演に行ったことがある。野坂昭如は話の終いに次に登壇する水上を紹介する際に「次は辛気臭い人が出てくるけど、水洗トイレで便をすると浮くのと浮かないのがある。浮くやつを『水上便』という」と言ってオチをつけていたのを覚えている。50年も前の話だが時々思い出す。
その時はまだ水上勉が九つから禅寺で育ち、精進料理を作っていたとは知らなかった。1年のことを食で語った話を書いたというのは幼い頃に老師から叩き込まれた精進料理と『典座教訓』が水上勉の人生とともにあったということだ。
重ねて言うと、水上勉の原案になったエッセイを読むことをお勧めする(別の機会にこの本を書いてみようと思っている)。中江裕司の本書は映画を観てから読むのがいいのかもしれないし、逆でもいいかもしれない。読んで損はない。
出版にたずさわることから社会に出て、映像も含めた電子メディア、ネットメディア、そして人が集まる店舗もそのひとつとして、さまざまなメディアに関わって来ました。しかしメディアというものは良いものも悪いものも伝達していきます。 そして「食」は最終系で人の原点のメディアだと思います。人と人の間に歴史を伝え、国境や民族を超えた部分を違いも含めて理解することができるのが「食」というメディアです。それは伝達手段であり、情報そのものです。誰かだけの利益のためにあってはいけない、誰もが正しく受け取り理解できなければならないものです。この壮大で終わることのない「食」という情報を実体験を通してどうやって伝えて行くか。新しい視点を持ったクリエーターたちを中心に丁寧にカタチにして行きたいと思います。